周存続に奔走した西周の公子 周最(戦国 西周)
この西周・東周は、便宜として時代を分けたものであるが、
まぎらわしいことに、西周・東周と呼ばれる諸侯国がある。
周の考王が、紀元前440年に弟の掲を王城(洛陽)に封じ、河南公とした。
これが、西周の桓公である。
その後、桓公の孫にあたる恵公が、末子の班を鞏に分封した。
これが、東周の恵公である。
当時の周王が都とした下都(成周)からみれば、
王城は西に、鞏は東に位置したため、
河南公の封地は西周、班の封地は東周と呼ばれた。
周には、夏禹以来、天子が有した伝国の宝器である九鼎があった。
それゆえ、周は小国ながら天下の諸侯に狙われ、衰退の一途をたどった。
それを食い止めようと奔走した縦横家がいた。
周最
である。
西周の武公(恵公の子)の子ともいわれるかれは、合従策をたずさえ、
秦の周兼併を阻止しようと諸侯にはたらきかけた。
中国史人物伝シリーズ
目次
合 従
紀元前四世紀後半、商鞅の変法で富国強兵を果たした秦が趙や宋と連衡して中原に版図を拡げ、
周を併せようとしていた。
――なんとか秦が周を攻めさせぬようにせねば。
西周の公子である周最は、周と魏・韓・斉とを合従させて秦に対抗しようとした。
それでも、秦は魏や韓の版図を削り取り、周に逼ろうとしていた。
そのような中、紀元前二九八年、斉の宰相である孟嘗君(田文)が、韓・魏とともに秦を攻め、
函谷関に入るという快挙をなした。
――秦を抑えるには、諸侯を合従させるしかない。
そう痛感した周最は、合従策をたずさえて斉へゆき、孟嘗君を輔けた。
ところが、紀元前二九五年、趙の主父(武霊王)が餓死すると、秦は連衡の相手を趙から斉へ替えようとした。
斉の湣王がこれに応じたため、紀元前二九四年、周最は斉を逐われ、魏へ逃れた。
周最は魏に移っても諸侯にはたらきかけ、周の存続を図った。
周最を放逐した斉の湣王は、紀元前二八六年に宋を滅ぼすと驕傲になり、孟嘗君を罷免した。
魏へ奔って宰相に迎えられた孟嘗君は、秦と連衡して斉を伐とうとした。
――周を脅かすのは秦じゃ。
そう信じる周最は、魏を見限って斉へ戻った。
しかし、天子気取りの湣王は、周最の言に耳を貸そうとせず、
紀元前二八四年、燕を主とする五国連合軍に攻め込まれた。
――秦を制するには、秦の懐中にはいるしかあるまい。
周最はそう思い直し、滅亡寸前の斉をあきらめて秦へはいった。
秦王を説く
周最は、秦にあっても周が存続できるように動いた。
秦が周を攻めようとするのを知ると、周最は昭襄王に拝謁した。
「周をお攻めになってはなりませぬ。周のような小国を攻めてもお国の利益にならないばかりか、
天子の国を攻めたことで天下を畏れさせてしまいます。そうなれば、諸侯は東のかた斉になびきましょう。
兵が周を攻めて疲弊し、天下の諸侯が斉になびけば、秦は孤立してしまいます。
天下の諸侯は秦を疲弊させたいとおもい、王に周を攻めさせようとしているのです。
諸侯のいいなりになって秦が疲弊すれば、王の威令は周にさえおこなわれなくなりましょう」
周最は秦の不利だけをことさらに説いて、周への攻撃をやめさせた。
しかし、どれだけ周最が周存続のために腐心しても、秦の野心を止めることはできなかった。
秦が周王朝を滅ぼしたのは、紀元前二五六年のことである。
天 命
西晋の皇甫謐が著した『帝王世紀』によれば、周は、三十七王、八百六十七年つづいたという。
周の最後の王は、三十七代目の赧王であった。
紀元前六〇六年に、楚の荘王に鼎の大小軽重を問われた周の大夫王孫満は、
「周の世がどれだけ続くかを成王が占わせたところ、三十代、七百年であったらしい」
と、述べた(『春秋左氏伝』宣公三年)。
周王朝がいつ成立したのかは不明であるが、おそらく八百年くらいは続いたのではなかろうか。
王孫満がいうように、三十代、七百年が周の天命であるならば、実際はそれより長くつづいたことになる。
周の滅亡が天命であるならば、周最がどんなに奔命しても、どうにもならなかったであろう。
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