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中国史人物伝

莫山先生のいちばん壮絶な中国の書は? 蘇東坡(蘇軾)(北宋)(7) 赤壁賦

蘇東坡(蘇軾)(6) はこちら>>

詩書画一体の芸術を追究し、茶の間でも人気を博した書家の榊莫山先生(1926-2010)は、

「中国の書のなかで、『いちばん壮絶なやつを一つ』と、問われたら、

わたしは、蘇軾(蘇東坡)の『黄州寒食詩巻』や、と一も二もなく答えたい」

と、仰ったという。

『黄州寒食詩巻(寒食帖)』は、蘇東坡が黄州へ流されていた元豊五年(1082年)に作られた。

この年、かれは他にも代表作となる詩賦『赤壁賦』を詠んだ。

不遇が、かれの文才を高めたようである。

中国史人物伝シリーズ

蘇東坡(蘇軾)(1) 大志
蘇東坡(蘇軾)(2) 科挙
蘇東坡(蘇軾)(3) 出世と訣れ
蘇東坡(蘇軾)(4) 王安石の新法
蘇東坡(蘇軾)(5) 超然

目次

黄州寒食詩巻

元豊五年(一〇八二年)、四十七歳の蘇東坡は、黄州に来てから三度目の寒食節を迎えた。
寒食節とは、冬至から数えて百五日目に火の使用を禁じ、
煮炊きをせずに作り置き料理のみを食べる慣わしである。
寒食節は春秋時代の晋の介之推が焼死した日といわれ、かれの死を悼む行事として火を禁じたとされる。
寒食節は、今の暦では四月四日前後とされるから、本来は気候のよい季節である。
だが、この年は激しい雨が降った。
雪融け水を含んで水かさを増した長江に豪雨が降り注ぎ、舎が水煙に包まれるなか、
蘇東坡はわが身の不遇を嘆いて詩二首を詠んだ。
これを紙本に墨書したものが、『黄州寒食詩巻(寒食帖)』である。

赤壁賦

蘇東坡が代表作となる『赤壁賦』を詠んだのは、書の代表作である『黄州寒食詩巻』を書いたその年であった。
黄州に来てから、かれは幾度か赤壁を訪れている。
赤壁は『三国志』で有名な古戦場であるが、当時、正確な位置は不明であったらしい。
蘇東坡が訪ねたのは、黄州西北の赤鼻磯であった。
二百年以上前、晩唐の詩人杜牧が黄州刺史であったときに、
そこを赤壁の古戦場と重ね合わせて詩を詠んでいた。
蘇東坡は友とともに長江に舟を浮かべて赤壁に遊び、杜牧にならってそこを赤壁の古戦場に見立て、
曹操や周瑜ら『三国志』の英雄に思いをはせながら詩を詠んだ。
これが、『赤壁賦』である。
『赤壁賦』は秋七月に詠んだ前篇と冬十月後に詠んだ後篇の二篇からなる賦(韻文)で、
かれの楽天性がよくあらわれた名作といわれる。

減 刑

――どこかに田地を買って致仕(隠退)しよう。
元豊七年(一〇八四年)、蘇東坡は五十歳を目前にしてそう意いはじめた。
ところが、三月になって、汝州団練副使に任ずるとの命を受けた。
汝州は黄州より都に近いので、罪を減じられたことになる。
蘇東坡は黄州を発ち、足かけ五年に及んだ流謫に終わりを告げた。

金 陵

気ままな旅であった。
蘇東坡は盧山に登り、筠州に蘇轍を訪ね、今後の方策を話し合ってから船で金陵(南京)に入った。
そこで隠居生活を送る王安石を訪ねるためである。
ところが、七月、王朝雲が生んだ第四子の蘇遯が誕生日を迎える前に夭折した。
江南の暑熱にやられたのであろうか。
打てる手は尽くしたものの、助からなかった。
人生の無常をわかっていても、愛児の死に接すると腸が切り裂かれるほど悲しくなった。
蘇東坡は、この悲しみを洗い流そうと慟哭した。
かれが王安石を訪ねたのは、冬になってからである。
政敵になってしまったとはいえ、蘇東坡は王安石の深い学識や政治家としての勇気ある態度には敬意を払い、
先輩として尊敬していた。
王安石は、そんなかれの来訪を喜んで迎え、親しい交じりを結んだ。
二人とも下戸であるから、酒は酌み交わさなかったかもしれない。
ふたりは詩を作ったり、仏教について語り合ったりした。
よほど楽しい月日を過ごしたのであろう。
――王公と親しくするのが十年遅かったようだ。
のちに蘇東坡は、詩にそう詠んでいる。
官界にいたときに互いをわかり合えていれば、いまごろ都で歓談していようか。
よほど寂しい暮らしを送っていたのであろう。
「土地を買って隣に引っ越さないか」
王安石がそうもちかけると、致仕して気ままに暮らしたいと望んでいた蘇軾は、
――金陵の土地を買ってあなたのおそばで暮らしながら、鍾山の下で老年を迎えたいとぞんじます。
と、返書した。
蘇東坡は、その後金陵に一か月ほど過ごしてから、常州へむかった。
この後、かれが王安石に会うことはなかった。
二年後、王安石は募役法の廃止を聞いて落胆し、この世を去った。

隠居地

蘇東坡は常州へゆき、土地を購入し、そこに居住する許可を求めた。
汝州には赴任しないという意思を表明したのである。
元豊八年(一〇八五年)に、かれは汝州団練副使のまま常州居住を許された。
――移りゆくこの世のことは、笑ってすまそう。
五十歳になった蘇東坡は、常州での致仕を決め込んでいた。

復 帰

元豊八年(一〇八五年)三月、神宗が三十八歳の壮さで崩御した。
蘇東坡は五月に名誉を回復されて、六月に朝奉郎に復し、
さらに七月には知登州軍州事(登州知事)に任じられたかとおもえば、
十月に赴任して五日目に礼部郎中に任じられ、都に召還された。
弟の蘇轍も秘書省校書郎・右司諫に任じられ、兄弟そろっての中央復帰である。
とはいえ、蘇東坡は急変した中央政界への登用にとまどうとともに、
中央政界の危険を予想し、都への道を急がなかった。
かれは十一月に山東半島の北端にある登州を発ち、翌月に汴京(開封)へ入った。
かれが着任のあいさつを済ますと、都の知友から祝賀の招待が殺到した。
――まさに自分たちの時代がきた。
という意気込みを、詩に託して詠った。
少し遅れた春が、ようやく訪れたような感じであろうか。
かなりの遠回りと忍耐を強いられたものの、ついに苦難が報われようとしていた。

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