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中国史人物伝

“気違い先生”舌鋒をふるう 外交の達人 酈食其(前漢) (1) 酒徒

人は、一芸に秀でていなければ、学問に励み、自身を高めようとする。

これは、古今東西通じて変わりはなかろう。

それでも、栄達を遂げられる人は、ほんの一握りにすぎない。

懸命に研鑽を重ねたとしても、時世に恵まれないまま、

白髪混じりになってしまう人もいるであろう。

残り僅かになった人生を儚んで諦観するか、それとも、

本懐を遂げられるまで忍従を続けるか。

幸運は、あきらめない人のもとにやってくる。

そう信じたい。

中国史人物伝シリーズ

目次

狂 生

酈食其は陳留県高陽郷の出身で、八尺(約一八四センチメートル)もの長身の持ち主である。
かれは若い時、魏の王子でありながら、身分を問わずたれにたいしても分け隔てなくつきあい、
声望を高めた信陵君にあこがれ、
――あれこそが、俠じゃ。あんな主君に仕えたい。
と、おもいながら、書物を読み、儒学に打ちこんだ。
仕官の適齢期である四十歳(『礼記』)前後に、秦が諸国を滅ぼし、天下を統一した。
――これで理想の世が実現できる。
この希望は、焚書坑儒で崩れ去った。
――生きにくい世になったわい。
酈食其は自説を封印し、韜晦を決めこんだ。
しかし、家が貧しくて口に糊することができず、村里の門番になった。
かれは、逢掖の衣(袖が大きくゆとりのある服)を着て圜冠(まるい冠)をかぶり、
句履(四角いくつ)を履き、佩玦を腰に帯びるという儒者のいでたちで仕事をしていた。
そのため、役人や地元の名士らから、
「狂生(気違い先生)」
と、呼ばれ、忌避されたあげく、本懐を遂げないまま酈食其は六十歳を迎えた。

沛公劉邦

紀元前二〇九年に、陳勝・呉広の乱が勃こると、各地で秦への叛乱が続発した。
翌年になると、劉邦が関中をめざして陳留の郊外を攻略しはじめた。
劉邦の評判は、巷間では芳しくない。しかし、酈食其は、
――なかなかの俠気じゃ。
と、興味をいだいた。
たまたま同郷で、劉邦軍の騎士となった者が帰郷した。
酈食其はその者に会い、
「沛公(劉邦)は傲慢で人を侮るが、大計を抱いているときく。
このような人にこそ仕えたいとおもうておるのじゃが、われを推してくれる者がいない。
なんじは沛公に謁見したときに、こういってもらいたい。臣の郷里に麗生という者がおり、
六十余歳で身長は八尺、人から『狂生』と呼ばれております、とな。
じゃが、自分では狂じゃないとおもうておる」
と、いった。
「沛公は儒者を好みません。客が儒者の冠をかぶって来れば、冠を脱がせてその中に小便をするほどです。
人と話していても、いつも儒者を罵っています。儒者として沛公に説くのはかないますまい」 
そう返されたが、酈食其は、
「われが申した通りに伝えてくれればよい」
と、だけいった。

高陽酒徒

紀元前二〇七年二月、劉邦が高陽に到ると、酈食其は謁見を求めた。
劉邦は牀(腰かけ)に足を投げ出して座り、二人の侍女に足を洗わせていた。
それをみて、
――なんと、無礼な。
と、閉口した酈食其は、拝礼をせず、長揖(手をこまねいて会釈)しただけでいった。
「あなたは秦を助けて諸侯を攻めようとなさるのか。それとも諸侯を率いて秦を破ろうとなさるのか」
劉邦は激昂し、
「豎儒めが。天下はみな久しく秦に苦しめられた。じゃから諸侯が相次いで秦を攻めているのだ。
それなのに、どうして秦を助けて諸侯を攻めるなどと申すのか」
と、罵った。
「われは儒者ではござらぬ。高陽の酒徒です」
そう返した酈食其が、つづけて、
「徒党を集め、義兵を合わせて無道の秦を誅しようとなさるなら、
牀に腰かけて足を投げ出したまま年長者に会うてはなりませんな」
と、諭すと、劉邦は足を洗うのをやめ、衣服を整え、詫びて酈食其を上座につかせた。
――なかなかみどころがあるわい。
酈食其が満足そうにうなずき、戦国時代の話をすると、劉邦は喜び、酈食其を食事に招いた。
「どんな策をとればよかろうか」
劉邦からそう諮われ、酈食其はつぎのように進言した。
「あなたがそこら辺の衆を寄せ集め、散乱した兵を合わせたところで、一万にもなりません。
それだけでただちに強秦に攻め入ろうとするのは、虎口を探るようなものです。
そもそも陳留は天下の要衝、四通五達の地です。いま城内には兵糧が多くございます。
われは陳留の県令と親しくしております。
われを使いさせてくださいますれば、あなたに降伏させてみせましょう。
もし聴き容れられなければ、兵を挙げてお攻めくだされ。城内から内応いたします」
「そうか。では、やってみよ」
こうして酈食其は、劉邦の命により、陳留へゆき、県令を説いて降伏させた。
酈食其が復命すると、劉邦は大いに喜んだ。
これまでの劉邦軍は、敵をみれば戦ってきたので、労力のわりに成果は小さかった。
懐柔策をとれば、一兵も失うことなく城を抜くことができる。
このことを、酈食其は劉邦に啓蒙したことになる。
この功により、かれは広野君という称号を与えられた。

天 職

劉邦は口はきたないが、部下の進言に耳を傾け、即座に実行に移してくれる。
――仕えがいのある主君じゃ。
と、感嘆した酈食其は、
「邑里に賢士・豪傑はおるか」
と、劉邦から問われ、弟の酈商を推挙した。
一族をあげて仕えるという意思表示をして、劉邦の信頼を得ようとしたともいえる。
「なんじの弟なら、間違いあるまい」
劉邦は酈商を部将に起用し、陳留の兵を率いさせた。
酈食其自身は、常に説客として諸侯に使いした。
現代の外交官を想えばよいであろう。
酈食其は相手の利害を鋭く分析し、劉邦の利益になるように誘導する話術に長けていた。
貴人を相手におのれの能力を存分に発揮して、舌鋒をふるったかれは、
――長いこと辛抱したかいがあったわい。
と、充実感をおぼえた。

秦の滅亡

劉邦軍の進軍は、韓の司徒(宰相)張良を陣中に加えてから、その速度を増した。
紀元前二〇七年八月、劉邦は武関を攻め破り、秦に入った。
秦の宰相趙高は、二世皇帝を殺し、
「関中を折半し、ともに王になろう」
と、劉邦にもちかけてきた。
しかし、劉邦はこれを拒絶した。
趙高は、子嬰を秦王に擁立した。
子嬰は、翌月に趙高を誅し、嶢関の防備を堅めた。
酈食其は劉邦の命を受け、陸賈とともに嶢関へゆき、秦将を説き、誘引した。
そのすきに劉邦軍は進軍し、藍田で秦軍に大勝し、子嬰の降伏を容れ、咸陽に入った。
劉邦に随従したことで、酈食其は歴史的大事件の証人になった。

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