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中国史人物伝

「項羽と劉邦」の生みの親 陸賈(前漢)

秦王朝滅亡後、“西楚の覇王”項羽と漢王劉邦との間で繰り広げられた楚漢戦争は、

「項羽と劉邦」「項劉記」

などの作品でも知られている。

これらは、『史記』の記述をもとに創作されたものであろう。

『史記』の著者である司馬遷は、『楚漢春秋』に取材して秦末漢初の記事を著述したとされる。

『楚漢春秋』を書いた陸賈は、楚漢戦争の時代を生きた賢人であった。

かれは管弦を奏する伶人と舞人を連れ、景色のよいところを歩いたという。

このような優雅な暮らしにあこがれる方もおられるのではなかろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

劉邦と儒者

陸賈は、楚出身の儒者であった。
かれは劉邦の食客で能弁の士として知られ、その左右にいて、よく諸侯に使いした。
劉邦は無学を売り物にしているところがあり、儒者を憎み、儒冠に放尿して辱めたこともあった。
しかし、皇帝になり、天下を治める立場になると、おのれを権威づけるために儒者を利用するようになった。

南越王を説く

楚漢戦争の頃、もと秦の役人であった趙侘(尉他)が南方の諸郡を併合し、
南越の武王
と、自称した。
漢には南越まで遠征できるだけの力がなかったため、
高祖(劉邦)は懐柔策をとり、趙侘を南越王に封じることにし、
「南越に使いしてまいれ」
と、陸賈に命じた。漢の十一年(紀元前一九六年)のことである。
陸賈が南越へ到ると、趙侘は髻(まげ)を木槌形に結い、両足を前に投げ出して坐ったまま面会した。
「足下は中国人で、親戚昆弟(兄弟)の墳墓が真定にあります。
それなのにいま足下は天性にそむいて冠帯を棄て、区々たる越に拠って天子に敵対しようとしておられますが、
そんなことをすれば禍が身に及びますぞ」
陸賈がそう説くと、趙侘はやにわに跪き、
「久しく蛮夷の中にいたので、大変失礼いたした」
と、陸賈に謝った。
「われと蕭何・曹参・韓信と比べれば、どちらが賢いでしょうか」
と、趙侘が陸賈に訊ねた。
「王でしょう」
「では、皇帝と比べれば」
「皇帝は豊沛から起ち、暴秦を討ち、強楚を誅し、中国を治めておられます。中国の人口は億をもって数え、
地は方万里、天下の肥沃な地を占めております。一方、王の領民は数十万にすぎず、みな蛮夷で、
山と海にはさまれて苦しみ、例えれば漢の一郡のようなもの。王はどうして漢と張り合おうとなさるのか」
「われは中国で起たなかったので、ここで王になった。もし中国にいたら、漢と張り合えたんじゃないかな」
そう哄笑した趙侘は、陸賈をたいそう気に入り、引きとめて、ともに酒を飲むこと数か月に及んだ。
「越にはともに語る者がいなかった。先生が来てからこれまで聞いたこともない話を毎日聞ける」
趙侘はそういって陸賈に値千金の財宝がはいった袋包みを与えただけでなく、別に千金を与えた。
陸賈が帰国して復命すると、高祖は大いに悦び、太中大夫(議論をつかさどる官)に任じられた。

新 語

陸賈は高祖に進言する際、いつも『詩』や『書』を称賛した。
「わしは馬上で天下を取ったんじゃ。『詩』や『書』なぞ、何の役に立つんじゃ」
高祖にそう罵られると、陸賈はすました顔で、
「馬上で天下を取れても、馬上で天下を治められますまい。文武を併用してこそ、長く天下を保てるのです。
もし秦が天下を併合してから先聖に法っていたなら、陛下はどうして天下をお取りになれたでしょうか」
高祖は不機嫌ながらも慚色をみせ、
「試しにわしのために、秦が天下を失い、わしが天下を取れたのはなぜか、
それから古昔の成功例や失敗例についても著してくれ」
と、陸賈に命じた。
陸賈は国家存亡の徴候を十二篇の書にまとめ、『新語』と称された。
一篇ずつ奏上するたびに高祖が称めないことはなく、左右の近臣たちも万歳を叫んだ。

韜 晦

高祖が崩じて恵帝が即位し、呂太后が政治をとるようになった。
――われなぞが諫争しても、詮ないであろう。
陸賈はそうおもいなし、病と称して辞職した。
好畤県の田地が肥沃であったので、かれはそこへ居を移した。
陸賈には五人の男子がおり、越でもらった袋包みの財宝を取り出して千金で売り、
息子たちに生活費として二百金ずつ生前贈与し、
「わしがなんじらを訪ねたときは、わしの供や馬に酒食を出してやってくれ。
十日経てば、満足してよそへゆくじゃろう。わしが死んだら、そのときにいた家に宝剣や車馬・従者をやろう。
他にもゆくところがあるから、なんじらのところへゆくのは一年で二度くらいに過ぎず、
いつも出かけては新鮮な肉料理を食べることになるので、長逗留してなんじらの邪魔をするつもりはない」
と、語げた。
陸賈はいつも四頭立ての安車に乗り、歌舞したり琴瑟を鼓したりする侍者十人を従え、
値百金の宝剣を佩びていた。

社稷の計

呂太后が呂氏一族を引き立て、かれらが権勢をほしいままにすると、
丞相の陳平は酒色に淫溺し、政治に関与しなくなった。
――丞相は、さぞお悩みであろう。
陸賈は陳平邸を訪れると、取次ぎも請わずに部屋にあがり、坐りこんだ。
陳平は腕を組みながら考えこんでいて、陸賈に気づかなかった。
「何をそんなに思い悩んでおられるのですか」
陸賈がそう話しかけると、陳平は、はっ、とした表情をみせ、
「先生は、われが何を思い悩んでいるとお思いですか」
と、訊き返した。
「足下は位は上相となり、三万戸を食む列侯です。富貴を極め、これ以上望むことなどございますまい。
それなのに悩みがあるとすれば、呂氏一族と幼君のことだけでしょう」
陸賈がそう看破すると、陳平は大きくうなずき、
「さよう。どうすればよかろう」
と、助言を求めた。
「天下が安泰なら宰相が注目され、天下が危うければ将軍が注目されます。
宰相と将軍が相和すれば士は帰服し、士が帰服すれば天下に変事が起ころうとも権力は分散しません。
社稷の計は、宰相と将軍だけが掌握しているのです。臣は常日頃これを太尉絳侯(周勃)に申しあげようと
おもうておるのですが、絳侯はわれと冗談をいい合う仲なので、われの言を本気にしません。
君はどうして太尉と交歓し深く結びつこうとされないのですか」
陸賈はそう述べると、陳平のために様々な策を進言した。
陳平はその計を用い、周勃の長寿を祝う宴を催し、燕飲した。
周勃も陳平に手厚く返礼し、ふたりは結びつきを深めた。
陳平は、奴婢百人、車馬五十乗、銭五百万を飲食費として陸賈に贈った。
陸賈はこれを使って漢廷の公卿たちと交遊し、名声を高めた。
その結果、朝廷内に呂氏に対抗する勢力が形成された。

再び南越へ

呂太后の時代、趙侘が帝号を称し、車蓋を黄絹にしたり、称制したりしていた。
呂太后が亡くなり、呂氏が誅滅され、文帝が即位した。
文帝は南越に対して懐柔策をとり、使者を派遣しようとした。
「陸賈が、先帝のとき越に使いしております」
という陳平の推薦で、陸賈は太中大夫に任じられ、ふたたび南越へ使いした。
陸賈が文帝の詔を奉じて十七年ぶりに南越に到ると、趙侘は恐れ、すぐに頓首して、
「藩屛の臣として漢に臣事いたします」
と、謝罪した。
陸賈が帰国し、復命すると、文帝は大いに悦んだ。

雑 感

陸賈は、いつ『楚漢春秋』を著したのであろうか。
『史記』にも『漢書』にも、それは記されていない。
劉氏の血胤が保たれたのには、陸賈の寄与が少なくなかった。
それなのに、陸賈はみずから才を匿し、さほど重用されなかったように感じられるのは、惜しいことである。

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