平和と実利と名声を希求した君子 向戌(春秋 宋)(3) 国家と国君
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晋楚二大国の講和を周旋し、平和同盟を実現させた向戌は、後世、
中華に平穏をもたらした君子として賞賛を受けただけでなく、批判にもさらされた。
楚が中原に侵攻してきても、晋は宋の同盟を盾に救援せず、なりゆきを看ていただけであり、
宋にいたっては、後年楚が陳を滅ぼした際に楚に加勢し、国際秩序を乱す悪事に加担した
という批判である。
このように悪しざまにいわれるのは、向戌の人となりによるところもあろう。
中国史人物伝シリーズ
楚の康王の死
目次
平和の代償
中原から戦火が消えた。
しかし、万事が好転したわけではない。
宋は盟主国の晋に幣貢を献じていたが、それと同量の幣貢を楚にも献じなければならなくなった。
つまり、国庫からの支出が、二倍に増えたのである。
そのしわ寄せは、人民へ転嫁されることになる。
賦課が二倍に増えたわけではなかろうが、民に多大な負担を強いたであろうことは想像に難くない。
金で購う平和とは、いったい何なのであろうか。
恩 賞
――これほどの大事を成し遂げられるのは、われを措いてたれがいようか。
おのれの功に酔いしれた向戌は、平公に拝謁し、
「一命を賭して行った事績に対し、邑を賜りたく存じます」
と、行賞をねだった。
平公も大規模な国際会議を主催し終えたばかりで機嫌がよく、
「六十邑を授けよう」
と、気前よく応じた。
向戌は飛ぶように退出すると子罕をみつけ、
「どうだ、六十も邑を賜ったぞ」
と、辞令をみせびらかした。
それをみて、子罕は色をなし、
「武器ができてから久しい。武器をなくすことなどできようか。廃興存亡は、武器の使い方しだいである。
それなのに武器を廃そうとするのは、事実を枉げてはいないか。諸侯を騙せば、これ以上の大罪はなかろう。
たとえ大罪がなくても恩賞をねだるのは、これ以上の強欲はあるまい」
と、向戌を痛烈に非難し、書きつけの字を削って投げ捨ててしまった。
それをみて、向戌は、はっ、と我に返り、恩賞を辞退した。
ところが、向氏の一族はおさまりがつかなかった。
「子罕を伐て――」
いきり立つ族人たちを、向戌は、
「われが亡びそうになっていたところを、あの方は救ってくれたんじゃ。これ以上の恩徳はなかろう。
攻めるだなんて、とんでもない」
と、諭した。
国家か国君か
平公三十一年(紀元前五四五年)冬、平公は宋の同盟により、楚を聘問した。
その途次に、楚の康王が亡くなったいう報せに接した。
「このまま、楚へゆくべきか」
平公は、随従していた向戌に諮うた。
「われらは、楚君ひとりのために参ったのです。楚国のために参ったわけではございません。
飢えや寒さでさえ恤えていないのですから、たれが楚のことを恤えることなどできましょうや。
ひとまず帰り、人民を休息させましょう。楚が新君を立てるのを待ち、それから備えましょう」
向戌がそう進言すると、平公はさっさと帰途についてしまった。
同盟を主導した向戌が、楚への参勤を止めたのはどういうわけであろうか。
同様に楚への途次で訃報に接した魯の襄公は引き返さずに楚へゆき、康王の葬儀に参列した。
向戌の主張とはちがい、楚という国のために聘問している、という見解である。
――たれのために、楚へゆくのか。
この命題への見解が両国の対応をわけたようであるが、この違いはどこからくるのか。
魯は、三桓と呼ばれる大臣の権勢が盛んで国君を凌いでいる。
それゆえ、国君よりも国家を重んじたのであろう。
それに対して、平公の威権は宋の大臣たちにそれほど侵されていない。
したがって、向戌は国家よりも国君を重んじたのである。
つまり、宋と魯がみせた正反対の対応は、両国の政体の違いを如実にあらわしたものといえよう。
また、諸侯の葬礼は、亡くなってから五か月目に行う。
それゆえ、宋の主従は楚都における滞在の長さを嫌ったともいえよう。
さらに、向戌は寒さに言及したが、この年の冬は特に寒かったらしく、
令尹(首相)の子木までもが康王のあとを追うように亡くなってしまった。
晋の宰相の趙武は、子木の死を聞くと、同盟国の喪に服するように服喪したといわれる。
ものがたい人である。
申の会同
楚の康王の死後、その子が王位を継いだが、四年後に叔父の公子囲に絞殺された。
公子囲は、みずから楚王となった。霊王である。
――覇を唱えたい。
かれは祖父の荘王にあこがれ、申で諸侯会同を催した。
平公三十八年(紀元前五三八年)のことである。
宋からは太子佐が出席し、向戌が付き添った。
諸侯を慰撫した荘王とは異なり、霊王は会同で驕恣を崩さなかった。
「楚はもう恐れるに足りません。楚君は驕って諫言に耳を傾けません。十年ももたないでしょう」
鄭の子産にそう話しかけられると、向戌は大きくうなずき、
「さよう。十年侈らなければ、悪事が遠くまで伝わらないでしょう。
悪事が遠くまで知れ渡ってから見棄てられるのです。善事も同じで、徳が遠くまで及んでから興隆するのです」
と、応じた。
ふたりが話した通り、覇者を気取った霊王は、九年後に破滅を迎える。
弟たちに政変を起こされて、ひとり山中をさまよいながら死んでいったのである。
叛乱の芽
在位四十年に達し、老年にさしかかった平公は、晩年に柳という宦官を寵愛した。
その柳を、太子佐が憎んでいた。
「われが柳を殺しましょう」
右師の華合比(皐比)が、太子佐にそう申し出たのは、
――いずれ太子が君主になろう。いまのうちに歓心を買っておくのがよい。
という打算からであろう。
ところが、柳はどこからかその話を聞きつけて、
「合比は、亡命した者どもを入れようとしております」
と、平公に告げた。
亡命した者どもというのは、二十年前に亡命した華臣らのことである。
近臣に調べさせてみたところ、証拠が出たので、平公は華合比を追放した。
これに便乗したのが、華合比の弟である華亥であった。
かれは柳に有利になるような証言をして、空席になった右師に任じられた。
向戌は、任官のあいさつにきた華亥にむかって、
「なんじは、きっと亡びよう。宗室を滅ぼしたくらいだから、他人を滅ぼすなんて何ともおもわないであろう。さすれば、他人もなんじを滅ぼすことなど何ともおもわんはずじゃ」
と、吐き棄てるようにいった。
果たして、華亥は十四年後に叛乱を起こし、楚へ亡命することになる。
このとき、子の向寧が華亥と行動を共にしたことまで向戌は予想できたであろうか。
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