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中国史人物伝

平和と実利と名声を希求した君子 向戌(春秋 宋)(2) 同盟

向戌(1)はこちら>>

宋は、古昔の商(殷)王朝の末裔の国である。

――平和を愛し、戦争を忌む。

この宋人の気風は、一度国が滅亡したことにより形成されたのかもしれない。

晋楚二大国が覇権を争うなか、宋は一貫して晋との盟約を守り続けた。

しかし、宋の大夫のなかには楚の大夫とも誼を通じた者もいた。

右師(首相)の華元も、そのひとりであった。

戦いを好まず礼を重んじ、君臣から信頼され、三十年以上にわたり宋の政柄を握り続けた

かれは、晋の宰相であった欒書と交誼があっただけでなく、

楚の令尹(首相)である子重(公子嬰斉)とも良好な関係を築いていた。

かれはこの関係を個人的なものにとどめず、天下の平和に結びつけようとした。

この発想は、非凡であろう。

華元は大言壮語な人ではなく、実際に晋と楚に講和を周旋し、

紀元前五七九年に晋楚両国の大臣を宋に招き、同盟を締結させた。

ところが、この盟約はすぐに破綻し、晋と楚はまたも干戈を交えてしまった(鄢陵の戦い)。

ふたたびこじれた晋と楚の関係は、もはや修復不可能であるかにおもわれた。

しかし、平和を希求する宋国に、華元の意志を紹継する者があらわれた。

左師(副首相)の向戌である。

中国史人物伝シリーズ

第2次弭兵の盟

目次

国恥を隠す

平公二十年(紀元前五五六年)に、右師の華閲が亡くなった。
華閲の弟である司徒の華臣は華閲の子である華皐比の家を侮り、賊を使って家宰の華呉を殺した。
その殺害現場は、なんと向戌の邸の後ろであった。
平公はこれを聞き、
「華臣は宗家を荒らしたばかりか、宋国の政治までも乱しおった。逐え」
と、命じた。しかし、向戌が、
「華臣も卿(大臣)でございます。卿が従わないのは国の恥です。隠すのがようございます」
と、諫めたため、平公は華臣を許した。
向戌は華臣と顔をあわせることを嫌い、華臣邸の門前を通る際に、短い鞭で馬を打って駆け去った。
その後、国人たちが狂犬を追いかけると華臣の邸に逃げ込んだ。
すると、国人たちも犬のあとを追って邸内になだれ込んだ。
さすがの華臣もこれには恐懼し、陳へ亡命した。

太子廃替

「太子が謀叛をたくらんでいるとの密告があったが、まことであろうか」
平公二十九年(紀元前五四七年)秋、平公に召しだされ、そう諮われた向戌は、
「かねがね耳にしてございました」
と、応じた。
太子痤は美顔の持ち主であるが、心がねじけていた。
そんな太子痤を、向戌は畏れ嫌っていた。
「けしからん」
平公は、太子痤を捕らえた。
「佐だけはきっとわれを助けてくれるであろう」
太子痤がそういって、家臣に命じて異母弟の公子佐を呼びにいかせた。
向戌はそれを聞くと、公子佐とむだ話をして引き止めた。
――佐が、来てくれなかった。
太子痤は諦念し、縊死してしまった。
その後、太子痤の無実が判明した。
――早まったことをしてしもうた。
平公は後悔したものの、どうしようもなかった。
空いた太子の席に、佐がすわった。

宋の同盟

周 旋

向戌は、晋の宰相である趙武とも、楚の令尹(首相)である屈建(あざなは子木)とも良好な関係にあった。
趙武はともかく、向戌がいつ何を契機に子木と輯睦を深めたかは不明である。
ともかくも、かれは、
――晋と楚の講和を取りもとう。
という意望をいだいた。
三十三年前(紀元前五七九年)に、華元が晋楚の講和を周旋し、盟約にこぎつけたことがあった。
しかし、この盟約は三年ほどで破綻し、鄢陵の戦いが起きてしまった。
その後、天下の様相は大きく変化している。
――戦争をやめさせて、名を成さん。
向戌は、華元の遺志を紹ぎ、両国に休戦調停をもちかけることにした。
――うまくいけば、わが功績は竹帛に遺されよう。
野望を胸裡に秘めながら、向戌は晋へゆき、趙武に和睦を提案したところ、諸大夫の同意を取りつけてくれた。
向戌は次に楚を訪ね、子木に和睦を提案し、了承を得た。
向戌はさらに斉へ、次いで秦へもむかい、講和の承諾を得た。
晋・楚・斉・秦の四大国は、盟下の諸国に宋で停戦の盟約を行う旨の通知を行った。

折 衝

平公三十年(紀元前五四六年)五月から六月にかけて、趙武はじめ各国の大臣が宋を訪れた。
向戌は、盟いのことばを決めるため、六月丁卯(二十一日)に陳へゆき、子木と会見した。
その際、子木が、
「晋と楚の盟下の国が、互いに盟主国に朝見できるようにしていただきたい」
と、向戌に要請してきた。
この要求が通れば、宋や魯・衛など晋の盟下にある国が楚にも朝見しなければならなくなる。
三日後、向戌は帰国し、子木の要望を趙武に伝えた。
「楚君が秦君を弊邑に朝見させられるのでしたら、寡君も斉に申しいれましょう」
この趙武の返事を、向戌は子木に伝えた。
「うむう」
返答を保留した子木は、早馬でこれを楚の康王に伝え、決裁を仰いだ。
「斉と秦を除き、その他の国にはそれぞれ朝見するよう申しつけよ」
これが最終決定となり、子木は陳を発ち、宋都にはいった。

会 盟

平公三十年(紀元前五四六年)七月辛巳(五日)、晋・楚・魯・蔡・衛・陳・鄭・許・曹の大夫と向戌が、
宋の西門の外で盟いを交わした。
これを、弭兵の盟、弭兵の会あるいは華元が周旋した会盟と区別して第二次弭兵の盟と呼ぶことがあるが、
ここでは宋の同盟で通す。
春秋時代を初中後の三期に分けるならば、この同盟は、中期から後期へ移行させた画期的な出来事であろう。
その後、晋は国外にむけていた力を国内にむけ、卿どうしが権力争いにかまけるようになり、
楚は軍事の主眼を東方の呉にむけるようになり、晋と覇権を争うことが少なくなった。
会盟が成功したのは、南北両大国の和平の気運を向戌が嗅ぎ取り、それにうまく便乗したことに加え、
趙武と子木がともに慎重でものわかりがよい人物であったことも大きい。
そして何よりも、向戌の情熱と行動力があったればこそであろう。

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