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中国史人物伝

平和と実利と名声を希求した君子 向戌(春秋 宋)(1) 載氏と桓氏

中国の春秋時代(東周時代)は、周が洛陽へ東遷した紀元前七七〇年以降をいう。

この時代は覇者の時代ともいわれ、周王に諸侯を統御する力がなくなり、

諸侯どうしが時に手を結んだり、時に争ったりしながら領土の拡大や生き残りを図っていた。

晋の文公が覇者となった紀元前七世紀末から紀元前六世紀半ばにかけて、

北方の晋と南方の楚という二大国が諸侯を巻き込んで天下の覇権を争っていた。

その構図は、さながら現代社会の縮図をみるようでもある。

それならば、春秋時代について考えることで世界平和への糸口を見出せるのではあるまいか。

中国史人物伝シリーズ

仁者か愚者か? 宋の襄公(1) (2)

内 訌

目次

載氏と桓氏

周が洛陽へ東遷した時、宋は載公が君主であった。
載公の子である公子説、楽父術、皇父充石からはじまる家をそれぞれ華氏、楽氏、皇氏と呼び、
始祖の父の謚号から載氏と総称された。
公子説の子である華父督は太宰(宰相)となり、君主の廃替をおこなえるほどの権力をふるった。
その孫である華元は右師(首相)となり、廟堂の首座に昇った。
また、春秋五覇のひとりに挙げられる襄公の兄弟にあたる公子目夷(子魚)、公子蕩、公子向からはじまる家をそれぞれ魚氏、蕩氏、向氏と呼び、始祖の父である桓公の謚号から桓氏と総称された。
このなかで、襄公を輔佐した子魚の家である魚氏がもっとも尊貴とされ、代々左師(副首相)を世襲してきた。
宋が晋の同盟国になったころ、宋の大臣の席は載氏と桓氏で占められていた。

左 師

桓公の曽孫であった向戌の名が最初に史書にあらわれるのは、紀元前五七六年である。
この年に宋の共公が亡くなり、平公が即位した。
その代替わりに権力闘争があり、右師の華元が左師の魚石はじめ桓氏の五大臣を追放してしまった。
しかし、華元は桓氏を根絶させず、左師に桓氏の向戌を充て、国人を安心させようとした。
向戌には、賢知と良識があった。
しかし、華元が向戌に執政の席を与えた意図は、ほかにもあったろう。
これまで宋は、載氏と桓氏が権力を均衡させながら君主を支えてきた。
ここで桓氏を廟堂から逐ってしまうことで、権力の均衡が崩れてしまうのを華元は恐れたのではあるまいか。
つまり、華元は独善を嫌ったのである。
ともかくも、左師となった向戌は宋の外交と軍事を担い、
晋が主宰する会同に出席したり、宋の兵を率いて晋を主力とする連合軍の一翼を担ったりした。
のちに向戌は合邑に封じられたので、合左師とも呼ばれる。

司城子罕

華元が亡くなると、子の華閲が右師を継いだ。
この人事は、誄といってよかろう。
すなわち、華氏が強大であったことに加え、華元の功績に敬意を表したものである。
しかし、華閲には、父ほどの権力は与えられなかったようである。
華元の死後、宋で執政にあたったのは、向戌と司城の楽喜(あざなは子罕)であった。
ふたりは政務を分担し、子罕が内政を、向戌は外交と軍事を担当した。
司城という変わった名の役職は、宋にしかない。
載公の子である武公の名が司空であったため、それを避けて司城に改称したものであり、
土木をつかさどる大臣である。
第五位の席次の大臣にすぎない子罕が執政をおこなったのは、かれに賢知があったからに他ならない。
子罕の名が天下に知れ渡ったのは、平公十二年(紀元前五六四年)、
宋で大火災があった後に適切な処置を行い、被害を最小限に食い止めてからである。
「われは、貪らないことを宝としている」
そう語る子罕は寡欲で廉潔な人であり、『春秋左氏伝』襄公十五年にある玉を受け取らなかった逸話で、
その名を不朽にした。

温 情

平公十三年(紀元前五六三年)に、向戌は平公に付き添い、晋の悼公が主宰する会同に参加した。
会同の地は楚の柤であり、呉王寿夢と会談することが目的であった。
会同が終わると、諸侯が率いていた軍が柤の西北にある偪陽という国を攻めた。
攻略にはひと月かかったが、孔子の父である叔梁紇の活躍もあり、何とか攻め陥とすことができた。
「偪陽は、あなたのために取ったものです」
晋の大臣はそういって、向戌に好意を示した。
長年にわたり両国の親睦に尽力してきた向戌の労に報いようとしたのであろう。
――公事で私腹を肥やすわけにはいかぬ。
向戌は、そうおもって辞退し、
「どうか寡君に偪陽を授けてくださいますよう。われに偪陽をお授けになられれば、
われは諸侯の兵を引き出して封邑を得ることになり、これ以上の罪はございませぬ」
と、願い出た。
晋はこれを容れ、平公に偪陽を授けた。
偪陽を大夫の私邑ではなく、宋国の領邑としたのである。

奢侈をとがめる

向戌は寡欲ではなかったが、貪婪というわけでもなかった。
平公十八年(紀元前五五八年)、向戌は魯を訪問した。
その際、大臣の仲孫蔑に会い、
「あなたには令聞がありながら、豪華な邸宅をお造りになられた。よろしくないのでは」
と、とがめた。仲孫蔑は少しも容色を変えることなく、
「われが留守であった間に、兄が造ったものです。
毀して造り直せば二重の苦労ですし、兄をそしりたくありません」
と、開き直った。
この時代、君子の忠告を無視すれば、取り返しのつかない禍に罹りかねない。
仲孫蔑は、ほどなくこの世を去ったのである。

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