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中国史人物伝

不朽とは? 叔孫豹(叔孫穆子)(春秋 魯)

不朽とは、どういうことをいうのであろうか?

それをみごとに表現した君子がいた。

魯の大臣

叔孫豹(叔孫穆子)(?-前538)

である。

春秋時代の君子には予言めいた発言が多いが、かれも例外ではなかった。

他者の行く末を数々いい中てたかれは、自身の末路も予想できたのであろうか?

中国史人物伝シリーズ

不朽

目次

叔孫氏

魯は桓公から岐れた季孫氏・叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の三桓氏が国政の実権を握っていた。
叔孫氏は、代々魯の副宰相を輩出する名家であった。
叔孫豹は、叔孫氏の三代目当主である叔孫得臣の三男として生まれた。
豹という名は、父が討ち取った長狄(異民族)の名からつけられた。
叔孫得臣の死後に家督を継いだのは、兄の叔孫僑如である。
叔孫僑如は、成公の生母である穆姜と密通し、季孫・孟孫を追放して魯の権柄を一人占めしようと画策した。
しかし、失敗に終わり、斉に亡命した。
成公十六年(紀元前五七五年)のことである。
その前に、叔孫豹は、兄の企てが失敗すると察知し、もとから仲が悪かったこともあり、
禍難を避け、斉へ亡命していた。
叔孫僑如の亡命後、魯からの迎えの使者が叔孫豹を訪れた。
かれは兄と入れ替わる形で帰国し、叔孫氏の家督を継ぎ、魯の大臣になった。

親晋派の大臣

晋の文公が覇者になってから、魯は晋との同盟を堅持していた。
襄公十四年(紀元前五五九年)、晋は同盟国の軍を集め、秦に侵攻した。
魯からは叔孫豹が兵を率いて参加した。
連合軍は、涇水という川まで来ると進軍を止め、渡河をためらった。
晋の将である荀偃と士匄は、叔向を魯の陣へ遣り、叔孫豹に渡河を要請した。
これに対し、叔孫豹は匏有苦葉の詩で応じ、涇水を渡った。
この一歩が、かれの国際的な地位を高めたといえよう。
この戦いは遷延の役と呼ばれ、晋が秦に敗れた。
諸国が重い腰を挙げない中、真っ先に涇水を渡った叔孫豹に、
晋の諸将、特に作戦を担当した佐将の士匄は恩を感じたであろう。

不 朽

叔孫豹は、君子として天下に知られるようになった。
身につけた知識と教養に裏付けられた予言は、ことごとく的中する。
そんなかれの見識の高さを示す発言がある。
襄公二十四年(紀元前五四九年)に、叔孫豹は晋を訪問した。
晋都の郊外でかれを出迎えたのは、宰相の士匄であった。
盟主国の宰相が盟下の国の大臣の出迎えにわざわざ郊外まで出向くのは異例中の異例といってよい。
士匄がどれだけ叔孫豹に親しみを抱いていたかがうかがえよう。
「古人の言に、死んでも朽ちない、というのがある。その意味をご存知か」
士匄は、機嫌よさげにそう叔孫豹に尋ねた。叔孫豹が応えずにいると、
「昔、わが祖先は、帝舜より前は陶唐氏と称し、夏の時代は御龍氏と称し、商の時代は豕韋氏と称し、周の時代は唐杜氏と称し、晋が中華の盟主になってから范氏になりました。こういうのを不朽というのでしょう」
と、士匄が誇らしげに語った。
大国の宰相が機嫌よく話すことばに、小国の大臣はおかしいと思っても追従し、諾うのが普通であろう。
しかし、叔孫豹は違った。
「魯にかつて臧文仲という大夫がおりました。すでに死んでおりますが、かれのことばは世に残り、未だに実践されております。不朽とは、こういうことを申すのではないでしょうか。最上は徳を立てて世に残し、その次は功を立てて世に残し、その次は言を立てて世に残し、時が経っても廃れない。こういうものを不朽という、とわれは聞いております。祖先の姓を保ち、氏を受け継ぎ、宗廟を守り、祭祀を絶やさないことは、どの国でもあることで、福禄が大きいだけであり、不朽とは申せません」
この発言から、立徳、立功、立言を三不朽という。
小国の大臣が大国の宰相に恥をかかせるようなことをいうのは、度胸の要ることである。
恥をかかされた士匄の反応はわからないが、怒ったりしなかったようである。
それほど叔孫豹に気を許していたのであろうか。

矜 持

襄公二十七年(紀元前五四六年)、宋の向戌の働きかけで、晋・楚およびその同盟国が講和することになった。
宋で行われるこの会盟に、魯からは叔孫豹が出席した。
――邾や滕と同等の扱いにしてもらえ。
出立に先立ち、叔孫豹は宰相の季孫宿からそう指示された。
晋と楚が同盟すれば、楚も盟主国となり、貢賦が二倍に増えてしまう。
ところが、邾や滕のような小国なみの扱いを受ければ、負担が軽減される、と踏んだのである。
会議が始まると、斉が邾を、宋が滕を属国にしたいと主張した。
――われは列国なり。
属国になれば盟いに加われない。
叔孫豹は、頭をもたげた矜持を抑えきれず、盟いに加わった。
以後、魯の臣民は重税に苦しむことになる。

豎 牛

襄公二十九年(紀元前五四四年)、君子として名高い呉の季札が王命を受け、諸国を歴訪した。
かれはまず魯を訪問し、叔孫豹に面会し、その人物を喜ぶ一方、
「あなたはまともな死に方をしないでしょう。善を好んでも人を選べない。君子の務めは人を選ぶことにある、といいます。あなたは魯の大臣の家に生まれ、国政を担っています。人物の挙用を慎重にしなければ、どうして重任に耐えられましょうか。禍が必ずあなたの身に及びましょう」
と、忠告した。
それに対する叔孫豹の反応はわからないが、かれの身には染みなかったようである。
かつて斉へ亡命する途中、叔孫豹はある女人に目を奪われ、一夜の契りを交わしたことがあった。
帰国し、魯の大臣になってから、叔孫豹は牛に似た容貌の男に助けられた夢をみた。
その後、ある女人が雉を献上し、叔孫豹に面会を求めてきた。
話を聞くと、かつて媾合った女であった。
子がいるという。
引見すると、夢で助けられた男そのものの容貌であった。
「牛よ」
と、声をかけると、
「はい」
と、返ってきた。
叔孫豹は喜び、牛を豎臣(小姓)に取り立てて寵愛し、成人後は家政を任せ、
牛を通さなければ叔孫豹に取り次ぐことができないまでになった。
昭公四年(紀元前五三八年)、叔孫豹は狩りの最中に体調を崩した。
――主の長子であるわれこそが、家督を継ぐべきだ。
牛は、悪計をめぐらせ、叔孫豹を騙して二人の子を殺させた。
叔孫豹の病状は、悪化の一途をたどった。
牛は叔孫豹の病牀にたれも近づけず、食事すら与えなくなった。
二日後、叔孫豹は飢えて死んでしまった。
――叔孫豹は、まともな死に方ができない。
それを季札が六年前に予言していたことには、着目すべきであろう。
予言は叔孫豹も多く行い、的中させてきた。
しかし、おのれの最期までは予想できなかったようである。

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