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中国史人物伝

漢朝興隆の地に築いた理想郷 五斗米道 張魯(漢魏)(2) 宗教王国

張魯(1) はこちら>>

五斗米道の教主 張魯は、漢中に宗教王国を築きあげた。

かれの政権は、三十年近く続いた。

後漢末の乱世にあって、張魯が宗教王国の主として君臨できたのはどうしてであろうか。

最大の要因は、地の利にあろう。

かれが根拠とした漢中は、外敵が侵入しにくい険阻な地であった。

漢中では鉄などの資源が採れるので、財力が豊かであった。

さらに、かれは、氐族や板循蛮など山岳戦闘に長けた異民族を勢力下に取り込んだ。

これが、周辺勢力に対して暗黙の威嚇になったであろう。

また、君臣が信仰によって結びついているため、他の政権と君臣関係が異なっていた。

以上の要素が相俟って、漢中を統治し続けた張魯の政権であったが、

永遠に続くことはできなかった。

群雄が割拠していた天下が三つの勢力に収斂しようとするなか、

かれが築いた理想郷は終焉を迎えようとしていた。

中国史人物伝シリーズ

目次

善 政

張魯は漢中を手中に収めると、民衆が張脩の教えを信仰していることを利用し、それに加工した。
張魯は寄進された米を扶助に使用したり、休憩所などの施設を作ったりして社会事業に力を入れた。
かれは、義舎(駅舎)という無料の宿泊所を各地に設け、
米と肉をその中に置いて旅人に与えるよう祭酒に命じた。
旅人は義舎にある米肉を空腹が満たされるまで無料で食べることができるが、過剰に食べたら、
妖術でたちまち病気になると信じられた。
さらに、かれは、罪人に公益活動を行わせて、罪を償わせた。
たとえば、微罪を犯しながら隠匿している者には、道路を百歩修理すれば、罪を免除した。
また、春と夏は万物の成長する時節であるから、自然の法則に従って、死刑や狩猟などの殺戮を禁じ、
飲酒も禁止した。
法を犯せば、三度までは赦されるが、四度めになってはじめて刑罰を受けた。
張魯が善政を布いているという評判が広まると、多くの流民がかれのもとに集まった。

宗教王国

張魯は教義を整備して、信者から構成される強固な自治組織を確立し、漢中に宗教王国をつくりあげた。
朝廷は張魯を米賊と称しながらも討伐することができず、懐柔策を採ることにした。
すなわち、張魯に使者を遣り、鎮夷中郎将・漢寧太守に任じ、貢物の献上だけを命じた。
これは、独立王国を黙認したようなものである。

漢寧王

権力を手にすると、それに阿る者があらわれるものである。
漢中の民が地中からみつけたといって玉印を献上してくると、群臣が張魯を賀い、
「漢寧王をお名告りくだされ」
と、口ぐちに申し出てきた。ところが、功曹(査定官)の閻圃が、
「漢川の民は十万戸を超え、財力は豊かで土地は肥沃、四方は険固ですから、うまくいけば斉の桓公や晋の文公のような覇者になれましょうし、そうでなくても竇融(後漢建国の功臣)に匹敵して、富貴を失うことはないでしょう。いま、独断で処置できる権限を与えられて、刑罰を断行するのに十分な勢力をおもちです。
王号を称えれば、必ず禍にかかりましょう」
と、諫めた。
張魯はこの意見に従い、王号を称えることを控えた。

唇歯の関係

建安十六年(二一一年)に、韓遂と馬超が曹操と交戦状態になると、
関西の住民数万家が子午谷を通り、漢中へ逃げ込んだ。
潼関の戦いと呼ばれるこの戦いに敗れた馬超が、翌年、隴上で再起の旗を揚げると、張魯は、
「関中と漢中は、唇歯の関係じゃ」
と、いって、援軍を送り、馬超が返り討ちに遭って漢中に逃げ込んでくると、それを受け容れ、援助した。
馬超は張魯から兵を借りて、涼州を攻め取ろうとしたが、できなかった。
これが何度も続くうちに、重臣たちが、
「馬超に兵を貸せば、しまいには乗っ取られてしまいますぞ」
と、張魯の耳に吹き込んだため、馬超は武都の氐族の居住地へ逃げこんだ。
建安十九年(二一四年)、劉備が劉璋と反目し、戦いをはじめると、馬超は蜀へ移った。
その後、馬超が劉備に帰服し、劉璋が劉備に降った、という報せを受けた。
――玄徳(劉備)は、あのぼんくらとは違う。
巴蜀をめぐる状況が大きく変わろうとするなか、蜀を治める劉備への対応を考える暇さえないほどの危急が、
張魯に迫っていた。

終 焉

建安二十年(二一五年)、曹操が張魯征伐の兵を挙げ、散関から武都に出て陽平関に到った。
その報せを聞いて、張魯は漢中を挙げて降伏しようとした。
しかし、張魯の弟である張衛が、
「一戦も交えぬうちに降るとは、なんと気弱な――」
と、反対し、数万の兵を率いて陽平関で防ぎ、守りを固めた。
張衛は堅固な地勢を利用して曹操軍を防いだものの、敗れて斬られた。
「陽平関が陥ち、衛が斬られただと――」
張魯は、稽顙して降伏しようとした。ところが、
「いま追い詰められた状態で出向けば、軽くみられます。巴中へゆき、しばらく抵抗してから臣従なさいませ。きっと重んじられましょう」
と、閻圃が知恵をつけてくれたので、張魯は南山に奔り、巴中へ入った。
「財宝の入った蔵をすべて焼き払いましょう」
南鄭から去るにあたり、側近たちからそう進言された。しかし、張魯は、
「それは、ならんぞ。われはもとより朝廷に帰順したいとおもうておったが、まだ本懐を遂げておらぬ。
いま逃げるのは、鋭鋒を避けるためじゃ。悪意があるわけではない。財貨は国家のものじゃ」
と、いって、蔵を封印して去った。
曹操は南鄭城に入ると、蔵の封印をみて感心し、
「張魯には、もともと善良な心があったんじゃ」
と、喜び、使者を出して張魯を慰撫し、帰服を促した。
その使者を家族とともに出迎えた張魯は、家族全員を連れて曹操のもとへゆき、降伏した。
張魯は鎮南将軍・閬中侯に封じられ、一万戸を与えられた。
さらに、張魯の五人の子と閻圃らも、みな列侯に封じられた。
これは、殊遇といえよう。
それほど、張魯たちは曹操に気に入られたのである。
曹操は張魯を連れて中原に戻り、賓客の礼で待遇した。

五斗米道 その後

曹操は淫祀邪教を嫌ったことで知られるが、五斗米道の布教は黙認したであろう。
関東へ進出した五斗米道は、現世利益を求める豪族層に浸透し、道教へと発展した。
張魯が率いた教団は天師道として続き、両晋南北朝期には貴族にも信仰された。
東晋の書家である王羲之が、五斗米道の信者であったことが知られている。
天師道はのちに正一道と名を変え、現在なお続いている。
五斗米道には、中国人がいだく理想郷の概念と通うところがあったらしい。
そこが多くの人びとの心を惹きつけ、貴賤を問わず長く広く信仰されたようである。

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