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中国史人物伝

仁者か愚者か? 宋の襄公(春秋)(1) 覇者への途

童謡『待ちぼうけ』の歌詞は、

中国の戦国時代に著された『韓非子』にある「守株」の説話から生まれたという。

そこでは、宋の農民の愚行が嘲笑の的になっている。

――宋人は、古いやり方を頑固に通す。

当時、天下にそう周知されていたのであろう。

――宋人は頑迷である。

この国民性に対する偏見は、

「宋襄の仁」

に起因するのであろう。

宋の襄公は、春秋の五覇の一人に挙げられる人物である。

斉の桓公の死後、覇者を目指したかれは、

敵にすら情けをかけようとした理想主義者であったのか、

気宇の大きさに国力がついていけなかっただけの愚者であったのか。

目次

商王の末裔

周は商(殷)を滅ぼした後、商王の子孫を宋に封じ、商の遺民を治めさせた。
それから三百年以上が経ち、桓公が宋の君主になった。
桓公の在位期間は、春秋時代最高の名君といってよい斉の桓公の時代と重なる。
桓公は斉の盟下に入り、斉の桓公の天下経営を助けることで、国歩を安定させた。
桓公の太子を、茲父(または茲甫)という。茲父には、目夷(あざなは子魚)という庶兄がいた。

憧 憬

桓公三十年(紀元前六五二年)、桓公が罹病した。
――父君は、もう長くはない。
茲父は桓公の病牀へ侍り、
「目夷は年長で思いやりがあります。どうか目夷をお立てになってください」
と、願い出た。
その熱心さにほだされて、桓公は子魚(目夷)に太子に立つよう命じた。
しかし、子魚は、
「国を譲ることより大きな思いやりはございません。臣はとても及びません。
それに、庶子が太子を差し置いて君主になるのは不順です」
と、辞退し、病牀から去った。
――太子が位を譲ろうとしたのは、子魚への義理立てであろう。
桓公はそう判じ、茲父の太子の位を替えなかった。
翌年の三月に、桓公が亡くなった。
後を継いだ茲父すなわち襄公は、喪に服することができなかった。
斉の桓公が主催する諸侯会同に参加しなければならなかったからである。
この当時、桓公の威令に逆らう国など中華に存在しないといってよい。
その桓公が、葵丘で行われた諸侯会同で、周の襄王から胙(祭肉)を賜った。
即位直後であった襄公の目には、会同を仕切る桓公の姿がまぶしく映ったであろう。
――われも、かくありたい。
襄公は、自身が諸侯を従えて周王から祭肉を授かるすがたを脳裡に描いた。
周王から祭肉を授かるのは、姫姓以外では杞(夏王の末裔)と宋(商王の末裔)の君主だけであった。
それを想えば、いま桓公が座っている席に宋の君主である自分がいるのは座りがよかろう。
もしかしたら、かれの胸中にそのような野心が芽生えたかもしれない。

予 兆

襄公は、子魚を左師(宰相)として聴政を任せた。その結果、宋はよく治まった。
襄公六年(紀元前六四五年)、宋は農閑期を見計らって曹を攻めた。
三十五年前に宋の内乱につけ込んで攻められた怨みに報いたのである。
襄公七年(紀元前六四四年)、隕石が宋の領内に落ちてきた。
さらに、六羽の鶂が向かい風に吹かれて宋の首都である商丘の上空を飛びながら後退りしていった。
襄公は、宋を聘問した周の内史にこれらが何の兆しなのか尋ねたところ、
「明年、斉が乱れましょう。君は諸侯を従えることができますが、長く続かないでしょう」
という応えが返ってきた。
――斉が乱れる……
心当たりがないわけではない。
盟主国である斉には、内乱が勃こる要素があった。後継争いである。
桓公には有力な公子が六人いたが、長く後継者を定めなかった。
そのため、水面下で後継者を巡る争いが激しくなった。
桓公は、宰相である管仲と相談して公子昭を太子とし、襄公に後見を依頼した。
――われは、斉侯に信頼されている。
そうおもうと、襄公の胸が熱くなった。
果たして、翌年、桓公が亡くなると、太子昭が襄公を頼り宋に亡命してきた。
管仲の死後、料理人の易牙と宦官の豎刁が桓公にせがんで公子無虧を後継にしてよいといわせていたらしい。
そのことばを盾に取り、易牙と豎刁は公子無虧を君主に立てたという。
――斉侯ほどの方でも、年をとるとこうなるのか……。
いたたまれなくなった襄公は、曹・衛・邾を誘い、ともに斉を攻めた。
不安にかられた斉は公子無虧を殺し、太子昭を擁立しようとした。
しかし、四公子の与党がこれを拒み、宋軍に戦いを挑んだ。
宋軍は斉軍を破り、太子昭を斉に入れて君主に立ててから帰還した。斉の孝公である。
――斉には、もはや往時の力がない。
斉国内の乱れようからそう察した襄公は、
――桓公の遺志を継ごう。
と、決心し、桓公に代わって覇者になろうとした。

覇者への途

古昔の王者は、諸侯を盟下に収めるのに徳をもってした。
しかし、襄公は、おのれの威を示して諸侯を服従させようとした。
その皮切りに、襄公十年(紀元前六四一年)、長い間諸侯会同に出なかったという理由で滕公を捕えた。
その後、襄公は初めての諸侯会同を、曹の南で主催した。
曹と邾の大夫が参加したこの会同で、襄公は、
――鄫公を捕え、神事に供えよ。
と、邾に命じた。東夷を脅して服従させようとしたのである。
あまりの横暴ぶりに、子魚は、
「斉の桓公は滅亡した魯・衛・邢の三国を復活させて諸侯を従えたが、それでもなお薄徳であると批判された。それなのに、君は一たび会同をしただけで二国の君主を虐げ怪神に供えた。覇者になろうとしても難しいであろう。天寿を全うすれば幸いだ」
と、嘆いた。
邾からの報告を受け、襄公は上機嫌であった。
そこに、曹が盟いに背く気配を示した。
――交わしたばかりの盟いを、もう破るのか。
襄公は、背信を咎める兵を挙げ、曹を攻め囲んだ。
――こんなことをしていたら、国が疲弊してしまう。
そう危惧した子魚は、
「君の徳に欠けている部分があるのではございませんか。それなのに他国を討伐するのは、いかがなものでしょうか。しばらくはわが身の徳を内省しませんか。徳に欠けている部分がなくなってから兵を挙げるべきです」
と、襄公に諫言を呈した。
――曹もこれで懲りたであろう。
そう感じた襄公は、子魚の諫言を容れる形で曹の囲みを解いて、引き揚げた。
その後も、かれは胸の奥底から湧き上がる顕揚欲を抑えることができずにいた。
「他人の欲に従っておのれの欲を満たすのであればうまくいくが、おのれの欲に他人を従わせようとすればうまくいくなんてことはあまりないであろう」
魯の大臣である臧孫辰は、強引に諸侯を従わせようとする襄公をそう批判した。
襄公の横暴ぶりは、多くの諸侯の心を離した。かれらの多くは、南の大国・楚を頼った。
――斉の桓公の徳を忘れないようにしよう。
襄公を快くおもわない、楚、鄭、陳、蔡が斉で会同を行った。
中原は、宋を中心とする勢力と楚を中心とする勢力に大きく二分された。
――楚をどうするか。
襄公は、熟慮の末、楚の成王を宋に招こうと企図した。
――楚を盟下に加えれば、楚になびいた諸侯にも号令をかけられるではないか。
そう想到した襄公は、使者を発して楚に会同への参加を呼びかけたところ、楚から応諾の返事を受けた。
――これで、われは斉の桓公を超えよう。
襄公は、胸の高鳴りをおぼえた。

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