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中国史人物伝

仁者か愚者か? 宋の襄公(春秋)(2) 夢散 宋襄の仁

宋の襄公は、斉の桓公の死後、諸侯会同を主催し、覇者への途を駆け上がっていた。

その覇権を確かなものにするため、南の大国・楚を盟下に入れようとした。

果たして、かれは桓公を超える覇者になれたのであろうか。

宋の襄公 (1) 覇者への途

目次

盟主の座

襄公十二年(紀元前六三九年)の春、襄公は宋の鹿上に楚と斉を招いて会同を行った。
これまで盟主国であった斉が参加した鹿上の会同には、盟主の交替という意味合いもあったろう。
犠牲の血を先にすすった方が、盟主である。
――われが先に血をすすりたい。
襄公がそう打診すると、楚は許諾した。
襄公は満足そうな表情を浮かべたが、子魚は、
「小国が盟主の座を争うのは、禍を招こう。宋は滅びるかもしれない。滅びなくても、戦争に敗れよう」
と、愁眉を寄せた。
襄公の欲望の肥大は、歯止めがきかなくなってきた。
かれは、楚に従う南方諸国をも宋に招き、盟下に加えようとした。
秋に宋の盂で行われた会同には、宋・楚に加え、陳、蔡、鄭、許、曹の君主が出席した。
――これで、桓公を超えた。
得意の絶頂にあった襄公に、子魚は、
「禍のもとはここにあろう。君の欲はあまりにもひどい。諸侯は我慢しようがない」
と、危惧した。
果たして、襄公はこの会同で楚に捕えられた。
楚の成王は、襄公が盟主を気取るのが不愉快であったのである。
楚軍は捕えた襄公を連行し、宋の領内を荒らし回った。
宋は、君主を捕えられているために、手出しができなかった。
これで鬱憤を晴らしたのか、成王は十二月に薄で会同を催し、
「これに懲りて、身のほどをわきまえよ」
と、罵り、ようやく襄公を釈放した。
襄公は、恥辱にまみれた。しかし、子魚は、
「禍はまだ終わっていない。まだ君を懲らしめるに十分でない」
と、述べ、まだ安心できずにいた。

泓水の戦い

薄の会同以後、諸侯は一斉に楚になびいた。
襄公十三年(紀元前六三八年)、鄭の文公が楚に入朝した。
これをとがめるため、襄公は衛・許・滕を誘って鄭を討伐した。
「禍は、これからはじまるであろう」
子魚は、そうつぶやいた。
鄭は、楚に救援を要請した。これに応じ、楚は宋を攻めた。
襄公は鄭の包囲を解き、宋へ戻り、楚軍を邀え撃つことにした。
「こないだの恥をすすいでやる」
いきりたつ襄公にむかって、
「天が商を棄ててから久しくなります。君は商を再興なさろうとされておられますが、とうてい赦されるものではございません」
と、子魚が強諫した。だが、襄公は、聴き容れなかった。
良識の持ち主である子魚の切言が襄公に染みなかったのは、どうしてであろうか。
斉の桓公には管仲という名宰相の輔佐があったが、襄公にはそのような佐相がいなかった。
管仲は桓公の放恣を戒めたが、子魚は襄公の自尊を抑えることができなかった。
子魚は襄公の兄であり、襄公に直接厳しいことをいえるが、近すぎるために、かれの意見はかえって諫止の強さを持たないのかもしれない。
子魚は良臣であったが、争臣にはなれなかった。
そもそもかれは襄公が覇者になることを望んでいなかった。
無難に国を経営し、子孫に伝えることができれば、それでよかったのである。
しかし、それでは満足できない襄公は、十一月一日、泓水のほとりに邀撃の陣を布いた。
楚軍が対岸にすがたをみせたのは、宋軍が布陣を終えてからである。
楚軍が泓水を渡り始めた。
「敵は多勢で、こちらは寡勢です。敵がまだ渡り終えないうちに攻撃しましょう」
子魚はそう進言したが、襄公は、いけない、といって聴き容れなかった。
楚の全軍が渡渉を終えたが、まだ陣形を整えていなかった。
子魚が再度攻撃命令を出すよう進言したが、襄公は、まだだ、といって動かない。
襄公が攻撃命令を出したのは、楚軍が布陣を終えてからであった。
こうなると、兵力の差が結果に反映されてしまう。
宋軍は大敗した。門官(近衛兵)は全滅し、襄公自身も股に負傷してしまった。
この戦争を、泓水の戦い、という。
国人はこぞって襄公を非難した。
「君子は負傷者を重ねて傷つけず、老人を捕えたりはせぬものだ。昔の戦争では、狭いところで敵の進路を阻むようなことをしなかった。寡人は亡国の子孫じゃが、敵が陣形が整わないうちに攻撃したりはせぬ」
そう反駁する襄公に、
「君はまだ戦いというものをご存知でない」
と、子魚は呆れるしかなかった。
襄公のいう通りにするのであれば、戦う必要など初めからなかったであろう。
泓水の戦いにおける襄公の行蔵から、無用の情けを意味する
「宋襄の仁」
という成語が生まれ、襄公は後世嘲笑の的になった。
とにかくも、襄公は覇権を失った。

夢 散

年が明けると、傷心の襄公に追い打ちをかけるような出来事が起こった。
斉の孝公(昭)が、宋に攻め込んだのである。
「恩知らずめが」
襄公は、おもわずそう罵った。
おのれが現在あるのは、いったいたれのおかげなのか。
それを想えば、宋を援け、恩に報いるべきであるのに、敵に加担し、恩を仇で返している。
この現実を目の当たりにして、やるせなくなった襄公は、五月に股の傷がもとで亡くなった。
その晩年は、夢破れ、寂しいものであった。
なお、子魚の子孫は魚氏を称し、代々宋の左師となった。

覇権の行方

襄公が亡くなる直前に、諸国を遊歴中の亡命公子が宋を訪れた。
晋の公子重耳である。
重耳は斉へゆくと、晩年の桓公に気に入られ、公女を娶り、馬二十乗を賜っていた。
――あの公子がきたのか。
襄公は重耳の来訪を喜び、病を押して饗応し、馬二十乗を贈った。
この厚遇は、重耳の心をふるわせたであろう。
重耳が帰国して君主になり、中原に勢力を拡大すると、宋は晋に誼を通じるようになった。
それを知った楚は、宋を攻めた。宋は、晋に救援を要請した。
重耳はこれに応じて楚と戦って大勝し、宋を救った。
それにより、晋は覇権を得ることになった。
重耳こそが、斉の桓公と並んで春秋時代を代表する名君とされる晋の文公である。
楚は覇権を失ってもなお勢力拡張を続け、しきりに宋に攻め込んだ。
しかし、どんなに楚に痛めつけられても宋は晋を恃み続けた。
その結果、宋は晋と強い紐帯で結ばれ、厚く信頼された。
襄公の遺志は、以後の宋の国歩を羈絆したが、それにより国を安定させたのである。

後世の評価

宋の襄公の在位期間は十四年で、決して長くはないが、春秋の五覇の一人に挙げられた一方、「宋襄の仁」の故事が人口に膾炙し、後世に強い印象を与えた君主であった。
『韓非子』には、守株の話など、宋人を愚か者とする設定が散見される。
その偏見は、「宋襄の仁」に起因するのかもしれない。
孔子が編纂したとされる歴史書『春秋』には、『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』という三つの注釈書が現存している。中でも『春秋公羊伝』と『春秋穀梁伝』は、襄公に対して対蹠的な評価を示している。
『春秋公羊伝』では、襄公を戦場においても礼を外さなかった立派な君主であると絶賛しているのに対し、
『春秋穀梁伝』では、分をわきまえず自滅したと非難している。
なるほど、襄公が覇権を失ってしまった背景には、気宇の大きさに国力が伴わなかったという部分もある。
その存在は、夢破れ、失意の中にあった晩年こそ哀愁を漂わせたが、聖天子が君臨した時代とは異なり、理想をふりかざすだけでは治めきれなくなった乱世において、一服の清涼剤のようにも感じられよう。

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