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中国史人物伝

『三国志』を終わらせた名将 杜預(西晋)(2) 統一への途

杜預 (1) はこちら>>

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、馬から落ちて死去したといわれる。

それを聞いて、

「武士でも馬から落ちることがあるのか」

と、首をかしげた人は、寡なくないのではなかろうか。

武将は騎馬に長けている印象があるが、実際は必ずしもそうではなかった。

ましてや、鐙がまだ発明されていない時代においては、なおさらであろう。

『晋書』によれば、杜預は馬に乗ることができず、弓で矢を射ることもできなかったらしい。

鐙のない時代には、裸馬に跨り、両肢で馬腹を挟んで体躯を安定させる必要があった。

そのうえ馬上で標的を定めることは至難に近く、騎射は困難を極めたに違いない。

そんな世であるから、杜預以外にも馬に乗れなかった武将がいたのではなかろうか。

春秋時代に中原で繰り広げられた戦いは、兵車戦が多かった。

時代が下って三国時代になっても、それは変わらなかったようである。

馬に乗れない杜預は、戦車に乗って指揮を執ったのであろう。

中国史人物伝シリーズ

目次

舟 橋

洛陽と対岸の孟津の間を舟で渡河しようとすると、黄河が荒れて舟が転覆する事故が多発した。
杜預は、祖父の杜畿が水死したこともあり、
「孟津に橋を架けましょう」
と、願い出た。朝議では、
「(洛陽が)殷(商)や周の都でありながら、聖人や賢人が橋を架けなかったのは、
きっと橋を架けてはならない理由があったはずです」
と、反対の声が挙がった。しかし、故事に詳しい杜預は、
「(周の文王が)舟を造りて橋となす、と『詩』にあるので、黄河に橋を架けたはずです」
と、反駁し、晋の武帝(司馬炎)の聴許を得た。
橋が完成すると、武帝は百官を集めて祝賀の宴を催し、
「あなたがいなければ、この橋はできなかった」
と、杜預を称めた。杜預は顔を赤らめながら、
「陛下が聖明であらせられなければ、臣もわずかな功すら挙げられなかったでしょう」
と、武帝を立てることを忘れなかった。

復 興

咸寧四年(二七八年)秋、長雨による水害に加え、蝗害まで発生した。
杜預は上疏して、現状と対策を述べた。それによると、
 水災は東南(江南)地方が特にひどく、低いところに水がたまり、高いところへは水がゆかず痩せてしまい、
 人民は困窮している。
 洪水のせいで食糧がなくて困窮している人民に魚や貝などの水産物を食べさせるべきである。しかし、
 水産物を採ることができるのは舟や漁具を所有する富民だけであり、貧民は食物を得ることができない。
その対策として、陂を壊して水を流出すべきである、と提言した。さらに、
 江南地方で行われてきた火耕水耨は、人口が増大した当今には適さない。
 陂(堤)が多すぎて管理が行き届かず、放置されている。
 後漢末以降に造られた陂が決壊する一方、漢代に造られた陂は堅固である。
 漢代に造られた陂を修繕し、魏代以後作られた陂は壊したほうがよい。
と、結論づけた。
従来の方法を堅持し続けるうちに、時代にそぐわなくなる場合がある。
ときどき見直しを行い、実情に適った方法に改めるべきであろう。

杜武庫

杜預は、度支尚書を七年間務めた。
杜預の政策は要諦をつかみ、過不足がなかった。
「杜武庫」
朝野の人士はそう呼んで、杜預を賞賛した。

戦地への赴任

呉の皇帝である孫晧は享楽に耽り、酒色に溺れ、宮殿を造営し、濫りに残虐な刑罰をおこなったため、
怨嗟の声が吏民問わず広がっているという。
そう伝え聞くたびに、武帝は、
――呉を滅ぼし、天下を統一したい。
と、意望したが、廷臣の多くに反対され、実行に移せずにいた。
賛意を示したのは、
 度支尚書の杜預
 征南大将軍の羊祜
 中書令の張華
の三人だけであった。
咸寧四年(二七八年)に羊祜が重病になり、杜預を後任に推挙した。
武帝は杜預を度支尚書のまま、仮節・平東将軍代行とし、征南軍司を兼ねさせた。
この年の冬に羊祜が亡くなると、杜預は鎮南大将軍・都督荊州諸軍事に任じられ、襄陽へ赴いた。

決 意

杜預は、呉の西陵督である張政と対峙した。
――晋は司令官が替わったため、攻めてこない、と張政は高を括っているであろう。
そう推察した杜預は、武器や防具を修繕し、精鋭を選り抜くと、張政の軍を攻めて大勝し、
その功により三百六十五戸に増封された。
杜預は、呉の様子が手にとるように把握できていたらしく、
――張政は、敗戦を隠そうとするであろう。
と、見越して、捕虜を孫晧に還した。
果たして、孫晧は張政を召還し、武昌監の劉憲を後任に送りこんだ。
「戦うまえに敵将を簡単に交替させ、敵は傾き揺らぐ形勢となったわい」
ほくそ笑んだ杜預は、
「いつでも呉を攻めることができます」
と、上書した。
「明年を待ってから、大挙して呉を攻めようとおもっている」
という武帝からの返事を受け取ると、杜預は筆を取り、
「閏月以来、賊はただ警戒して堅守するのみで、攻めてくる気配がございません。
賊は困窮し、力がないのです。いまが好機なのです」
と、上表し、攻撃命令を急かした。だが、何の沙汰もなかった。
呉は長江の天険を恃み、備えを怠っているが、孫晧が廃されて英主が立てば手に負えなくなるかもしれない。
杜預は焦り、一か月も経たないうちに再び上奏した。
「羊祜の考えが朝臣の多くと違ったのは、先に広く図らずに陛下とともにひそかに計略を練ったからです。物事はその利害を比較すべきです。この策は、十中八九、利がございます。反対している者は、おのれが出した計ではないため、成功しても功績がなく、前言を恥じるのが嫌なので意見を固守しているだけです。先ごろから朝廷では事の大小にかかわらず、異論が湧きあがっております。人の心は同じではないとはいえ、陛下の恩寵を恃んで後難を考えないから、軽々しく反対するのです。秋以降、賊を討つ形勢がはっきりしました。中止すれば、孫晧は延命策を考えましょう。呉が武昌に遷都して江南の諸城を修繕し、住民を遠くに移せば、城を攻めることができず、攻略するところがなくなり、明年に呉を攻めても勝てなくなるかもしれませんぞ」
この上表は、武帝が張華と碁を打っている最中に届けられた。
張華は碁盤を押しのけ、武帝にむかって拱手し、
「陛下は聖明で神のような武威を備えられ、朝野は静穏、国は富み兵は強く、号令は統一されております。
呉主は荒淫で驕虐、賢能の士を誅殺しており、いまこれを討てば、苦労せずに平定できます」
と、進言した。
「よしっ、呉を攻めるといたそう」
張華に背中を押されて、武帝は討呉を許可した。

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