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中国史人物伝

『三国志』を終わらせた名将 杜預(西晋)(3) 破竹の勢い 左伝癖

杜預 (1) はこちら>>

杜預 (2) はこちら>>

杜預はみずから「左伝癖」と称するほど『春秋左氏伝』を好み、注釈をほどこした。

現在われわれが目にする『春秋左氏伝』は、杜預の注解である杜注を含んでおり、

これがなければ『春秋左氏伝』を読むことができないとされる。

『春秋左氏伝』の愛読者として知られる人物には、

『三国志』の関羽や、日本では福沢諭吉や夏目漱石らがいる。

「一年に十一遍は読んだ」

福沢諭吉はそう豪語したとされるが、そんなかれですら、

杜預の注釈がなければ、一度たりとも『春秋左氏伝』を読破できなかったかもしれない。

中国史人物伝シリーズ

目次

討 呉

咸寧五年(二七九年)十一月、晋の武帝(司馬炎)は討呉の詔を出した。
翌月、武帝は賈充を大都督に任じ、二十数万の大軍を発し、六路から呉を攻めさせた。
五路の陸軍が北方から長江沿岸に迫り、龍驤将軍・監梁益二州諸軍事の王濬が巴蜀から
水軍を率いて長江を下って東進する策戦である。
杜預は王濬と連携を図り、荊州を押さえて、王濬の進軍を佐けることになった。

空飛ぶ軍

咸寧六年(二八〇年)正月、杜預は襄陽を出て江陵に陣を布き、諸将に兵を与えて長江を西上させ、
十日以内に周辺の城を攻め取った。
また、周旨・伍巣らに八百人の兵を与えて、夜中に舟で長江を渡らせ、楽郷を奇襲させ、旗指物を多く張り、
巴山で火を焚かせた。
それから要害の地に出ると、呉軍は戦意を喪失し、男女一万人以上が降伏した。
「北からきた諸軍は、長江を飛んで渡った」
楽郷城を護る呉の都督の孫歆は、書翰にそのように記して江陵督の伍延に送ったほど震恐した。

計 略

周旨・伍巣らは、楽郷城外に伏兵をおいた。
孫歆は出撃し、王濬の水軍を防がせたが、大敗して引き還した。
周旨らは伏兵を孫歆の軍に紛れさせて楽郷の城内に入ったが、孫歆は気づかなかった。
周旨らは孫歆の陣に直行し、孫歆を捕えて帰還した。
「計略に従ってつぎつぎに戦えば、一人で万の敵に当たることができる」
軍中では、そのような謡歌が流行った。
杜預は、孫歆を洛陽へ移送した。
「孫歆の首を得ました」
王濬は朝廷にそう報告したが、杜預が孫歆を生きたまま移送してきたので、都じゅうで笑いものになった。

江陵陥落

杜預の軍が江陵城に迫ると、伍延が降伏を願い出てきた。
だが、伍延が兵をならべて城を守っているのをみて、
――降伏は、偽装だな。
と、見抜き、攻撃命令を出し、江陵城を陥とした。
江陵の住民は杜預の智計を嫌い、杜預が病気で頸に癭(こぶ)ができたことを知ると、
狗の頸に瓠(ひさご)をくくりつけたり、
樹に癭のようなものがついていれば、木はだを削いで「杜預の頸」と書いてからかった。
杜預は江陵城を攻め陥とすと、かれらを捕えて殺した。

荊州平定

杜預が江陵を陥として長江上流域(荊州北部)を平定すると、沅水・湘水(荊州南部)以南、
交州・広州に至るまで、呉の州郡はみな風になびくように晋に帰服し、印綬を送ってきた。
杜預は節を杖つき、詔と称してかれらを慰撫した。
斬首されたり捕虜になったりした呉の都督・監軍は十四人、牙門将や郡の太守は百二十人を超えた。
杜預は武威を背景に将士を駐屯地から移して江北を充たし、江陵など南郡の故地に長吏(役人)を置いたので、荊州は粛然とし、呉人は家に帰るように安心して移動できた。

破竹の勢い

晋軍が呉の首都である建業に迫ったころ、諸将が集まって軍議を開いた。
「まだ百年来の敵に完全に勝ったわけではありません。これから暑い季節になり、雨の日が続き、
疫病が流行るかもしれません。冬を待ってから、もう一度攻めましょう」
ある将がそう提案すると、杜預は、
「昔、楽毅は済西で一戦しただけで強い斉国を併合しました。いま、兵威はすでに奮っており、
例えていえば、竹を割くようなものです。刃を入れれば数節先まで割れそうな勢いがありながら、
ここで武装解除してしまえば、その勢いを再び取り戻すことは無理でしょう」
と、反論し、諸将に指示を与え、ただちに建業へ向かわせた。
杜預がしたこの発言が、
「破竹の勢い」
という故事成語の由来である。
行く先々の城邑で、降伏しないものはいなかった。
停戦を主張した者は書を送り、杜預に謝った。
咸寧六年(二八〇年)三月、晋はついに呉を滅ぼし、孫晧を降伏させた。
永く続いた戦乱の時代に、終止符が打たれたのである。

占領行政

杜預は、軍旅を整えて凱旋した。
討呉の功により、杜預は当陽県侯となり、九千六百戸に増封された。
故事に詳しい杜預は、大功を立てて権能や身代が大きくなった者が終わりをよくしなかった例を顧み、
「わが家は代々文官でしたので、武事は得手ではございません」
と、何度も述べて辞職を願い出たが、許されず、引き続き荊州を任された。
――天下は安泰になったとはいえ、戦を忘れれば必ず危機に陥ろう。
杜預はそう警戒し、軍事教練を怠らず、蛮夷(異民族)を攻め破り、要害の地に屯営を置いた。
また、川をせき止めて灌漑をおこない、原野に水を浸し、田地の境界に石柱を立て、不公平のないようにした。
長江・漢水周辺はかれの徳に懐き、人民は杜預を敬慕して、
「杜父」
と、呼んだ。
さらに、杜預は沔水から夏水を通って江陵に到り、長江に注ぐ水路を開き、荊州南北間の通交の便宜を図った。
「後世まで杜翁に叛いてはなるまいよ。かれの智名と勇功を識っているのだから」
いつしか江南では、そう歌われるようになっていた。

功 名

杜預は、国家に利があることであれば、どんなことでもおこなった。
事に着手する際には必ず始終を熟慮し、失敗することは少なかった。
自分のことを譏り、することを妨げようとする者がいると、杜預は、
「禹や稷は、世を救済しようとして功績を挙げた。われもまたそうありたい」
と、語げた。
――後世に名を残したい。
かねがねそう願っていた杜預は、
――高岸を谷となし、深谷を陵となす(『詩経』)。
と、いつも口ずさみ、おのれの勳績を刻んだ石碑を二つ造り、
ひとつは万山の下に沈め、もうひとつは峴山の上に立てた。
「谷底に沈めた石碑が陵に出てきたり、山上に立てた石碑が谷底に沈まないとも限らない」
これが、石碑を二つ作った理由であった。

馬に乗れない名将

杜預は技芸の才には恵まれなかったらしく、じかに馬に乗ることができず、弓は的を外した。
けれども、帥将として大事を任されるようになった。
杜預が他人と交際するときには、恭しく礼をわきまえ、問われれば隱さずに答え、
倦まずに他人を教誨し、素早く仕事をして、慎重に発言した。

左伝癖

杜預は博識で多くのことに通じ、治乱興亡の歴史に明るく、
「徳は爪立ちしても達成できないが、功を立て、すぐれた著作を残せば、道に近づこう」
と、常々語っていた。
杜預は、『春秋左氏伝』を特に好んだ。
元凱というあざなを、『春秋左氏伝』(文公十八年)にある顓頊の八人の王子(八元)と
帝嚳の八人の王子(八凱)から採ったほどである。
呉を滅ぼした後、忙しさから解放されたかれは、『春秋左氏経伝集解』を書きあげた。
また、諸家の説を比較して考察し、『釈例』という書を著した。
さらに、『盟会図』と『春秋長暦』を作り、新たな学問を確立させた。
王済は馬の目利きにすぐれ、馬をとても愛していた。また、和嶠は蓄財に目がなかった。
「王済には馬癖があり、和嶠には銭癖がある」
杜預は、つねづね二人をそう評していた。
武帝はこれを聞きつけて、
「卿には、どんな癖があるんじゃ」
と、杜預に戯れて諮うた。すると、杜預は、
「臣には、左伝癖がございます」
と、真顔で応えた。
かれが著した『春秋左氏経伝集解』は現存最古の注釈書で、唐代には五経正義という国定教科書に採用され、
現在に至るまで『春秋左氏伝』を読むために必須とされるが、当初の評価はそれほど高くはなかった。

保 身

杜預は荊州にいて、洛陽にいる貴人や要人への付け届けを怠らなかった。
そのわけをたずねられると、
「われはただ害を被ることを恐れているだけじゃ。利益を求めてはおらぬ」
と、応えた。
――晩節を汚してはなるまいよ。
これが杜預の本心であったろう。
権力者との折り合いが悪く、貶斥されたまま復帰できなかった父の二の舞になることを恐れたともいえよう。
おのれの徳に、子孫は影響される。
このことを身にしみて体得した杜預であるからこその行蔵といえよう。

安民立政

付け届けの効果があったのであろうか。
杜預は徴召されて司隷校尉に任じられ、特進(三公に次ぐ地位)の位を加えられ、
太康五年(二八四年)、六十三歳で亡くなった。
武帝はたいへん嘆き悲しみ、征南大将軍・開府儀同三司を追贈し、成侯と謚した。
『逸周書』謚法解によれば、
――民を安んじ、政を立つるを成という。
とある。
多才多芸であったかれにふさわしい美謚ではなかろうか。

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