Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//『三国志』を終わらせた名将 杜預(魏晋)(1) ニート法律を作る

中国史人物伝

『三国志』を終わらせた名将 杜預(魏晋)(1) ニート法律を作る

三十代半ばになって独身で無職、いわゆる「ニート」状態になってしまい、

周囲の目を気にして焦る人が少なくない、という新聞記事を目にすることがある。

現在よりも短命であった二千年前であれば、なおさらであろう。

そんな状況を脱し、多方面に後世に遺る成果を挙げた人物がいた。

杜預(あざなは元凱)(222-284)

である。

詩聖 杜甫の先祖ともいわれる杜預は、多才多芸の人であったが、遅咲きであった。

注:杜預を「どよ」と濁って読むことが慣用となっているが、「とよ」でも通用する。

中国史人物伝シリーズ

詩仙 李白が尊敬した高節の処士とは?

目次

不遇を託つ

杜預は京兆尹杜陵出身で、祖父の杜畿は魏の尚書僕射(副長官)、
父の杜恕は幽州刺史という名家の出身であった。
かれもまた順調に出世するかとおもわれたが、二十八歳のときに暗転する。
嘉平元年(二四九年)、杜恕は弾劾されて廷尉(司法官)に連行され、死罪となった。
しかし、父である杜畿の功により減刑され、平民に貶とされて章武郡に流された。
杜恕は狷介な人で、権力者であった司馬懿はじめ群臣と折り合いが悪かった。
そのため、官界への復帰がかなわないまま、嘉平四年(二五二年)、杜恕は配所で幽悶のうちに生涯を終えた。
おかげで、杜預は長く仕官することができなかった。
――いずれ、時代がわれを必要とする時がきっとくる。
杜預はそう信じ、不遇を託っている間、倦まずに自己研鑽に努めた。
『春秋左氏伝』をはじめ書物を渉猟しながら、
――重耳は十九年も中華をさまよっていたのだ。われなんぞ――。
と、おのれを奮い立たせることもあった。
『礼記』によれば、三十歳で結婚し、四十歳で仕官する、とある。
三十代になってもまだ独身で、官途に就いていなかった杜預は、さぞかし焦ったことであろう。

仕 官

甘露二年(二五七年)、杜預のもとに、辟召の使者がおとずれた。
八年に及ぶ忍従から解放されたのである。
杜預は洛陽の都へ上ると、尚書郎に任じられ、祖父の爵位である豊楽亭侯を継いだ。
楽詳という儒者が、杜畿の功績について上書してくれたおかげであるという。
杜預は、心の中で祖父に頭を下げた。
父の徳のおかげで冷や飯を食わされたが、祖父の徳のおかげで日の目をみることができたのであるから、
父祖の徳に懐いを致さないわけにはいくまい。
杜預は三十六歳にしてようやく官途に就けたが、
――四十歳で仕官する。
と、『礼記』にあることを想えば、遅すぎたわけではないであろう。
仕事に飢えていた杜預は、務めに励んだ。
その恪勤ぶりが大将軍の司馬昭の目に留まり、妹の高陸公主を娶ることになった。
司馬氏と姻戚関係をもったことは、その後の杜預の官歴に少なからぬ影響を与えた。
杜預は尚書郎を四年務めた後、大将軍府の参軍事(参謀)に転任した。
景元四年(二六三年)、鎮西将軍の鍾会が征西将軍の鄧艾とともに蜀を討伐すると、
杜預は鎮西長史(副官)として従軍した。
蜀漢を滅ぼした後、鍾会が悪心を起こし、鄧艾を殺して叛乱を勃こすと、同僚たちはみな殺された。
しかし、杜預だけは知恵を巡らせて危機を免れて帰還することができた。
討蜀の功により、かれは領邑を増封されて千百五十戸になった。

泰始律令

蜀を滅ぼしてさらに権勢を高めた司馬昭は、その翌年に晋王となった。
――法が煩雑すぎる。
司馬昭はそう感じ、杜預や車騎将軍の賈充らに新たな法典の編纂を命じた。
杜預は、賈充らとともに律令の編纂にとりかかった。
その最中の咸熙二年(二六五年)に司馬昭が亡くなり、子の司馬炎が魏から禅譲を受けて皇帝(武帝)となり、
晋王朝を開いた。
律令は泰始四年(二六八年)に制定され、当時の元号を取り、
「泰始律令」
と、呼ばれた。律は刑法で、令は行政法である。
これまでの法は、正確にいえば「律」であり、令は律を補完するものにすぎなかった。
漢代以降、令の重要性が高まり、泰始律令では律から独立した法となった。
泰始律令が完成すると、杜預はその注解を作り、こう述懐した。
「法は基準を明らかにするものであるから、条文は簡単でわかりやすくすべきだ。わかりやすければ罪を避けることができ、罪を犯さなければ刑罰はあるだけにすぎない。簡単でわかりやすくするには、必ず名分を明らかにすべきだ。われの注解は法の真意を網羅し、わかりやすくしているので、法を適用する者にとっては対処が明らかで、法が煩雑になることはないであろう」
泰始律令は史上初の律令で、刑罰を軽くし、漢・魏の政令を整理し、儒教による秩序を重視した。
王朝が替わっても律令は基本的に踏襲され、隋の開皇律令や唐の律令へとつながってゆく。
律令は周辺諸国に影響を及ぼしたが、律令を制定・施行したのは、中国と日本だけであったとされる。
日本で律令が制定されたのは、泰始律令が制定されてから四百年以上も後である。

反 目

武帝は即位すると、杜預を河南尹(都知事)に任じた。
しかし、怨恨があった司隷校尉(警視総監)の石鑒に弾劾され、罷免された。

罪を贖う

その頃、異民族が隴右に侵攻してきた。
杜預は安西軍司(参謀)に任じられ、三百人の兵と騎馬百騎を与えられた。
長安に到ると、さらに秦州刺史・東羌校尉・軽車将軍・仮節を加えられた。
安西将軍の石鑒は、杜預に出撃を命じた。しかし、杜預は、
「賊は勝ちに乗じ、馬も肥えておりますが、こちらは軍需物資が乏しいので、力を合わせて物資を運び、
春まで待ってから攻めるべきです」
と、異見を述べた。すると石鑒は激怒し、
「勝手に城門や官舎を修繕し、物資を欠乏させている」
と、劾奏した。
杜預は檻車に収監され、廷尉へ連行された。
杜預は高陸公主の夫であったので、罪の減免が適用され、侯爵の剥奪で罪を贖った。
(高陸公主は、晋王朝が開かれる前に亡くなっていた。)
その後、隴右の情勢は杜預がいった通りになった。そのため、
「杜預は計略に明るい」
と、朝廷で評判になった。

適 職

泰始七年(二七一年)、匈奴の劉猛が挙兵し、叛乱を勃こした。
杜預は度支尚書(財務大臣)に任じられて、宮中で計略の決定に関与し、
新たな税制などの経済振興策や新兵器の開発などを献策した。
石鑒が帰還し、功を論じた。
――公事に私情を挟んでいる。
そう断じた杜預が、
「論功が実際と違っております」
と、指弾すると、口論になり、たがいに罵りあった。
結果、ふたりとも免官になった。
武帝は、杜預に引き続き度支尚書の職務を続けさせた。
数年後、杜預は度支尚書に復帰した。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧