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中国史人物伝

怜悧さと冷酷さと 乱世の梟雄 崔杼(春秋 斉)(1) 多才の貴公子

司馬遷は、『史記』列伝の二番目に管晏列伝を置いて、春秋時代の東方の大国

斉の名宰相である管仲と晏嬰の人物伝を記し、この二人で春秋時代の斉を代表させた。

魚は釣れなかったが、周の文王を輔けて天下を釣った太公望が建てた斉は六百年以上続き、

数多の宰相を輩出し、二人の他にもすぐれた宰相がいた。

なかでも、晏嬰の少し前に斉の宰相となった崔杼は、

逆らえば君主でさえも容赦しない冷酷さをみせた一方、

内政にも外交にもすぐれ、晏嬰への声望の高さに一目を置くなどの

怜悧さをもつ多面性から印象の強い宰相であった。

中国史人物伝シリーズ

斉の霊公の野望

目次

斉の名家

斉の丁公(太公望の子)の子である季子が崔邑に封じられて以降、
季子の子孫は代々崔邑を領有し、食邑の名をとり、崔氏を名告った。
紀元前七世紀、桓公が名宰相管仲の輔佐を受けて富国強兵を果たし、中華の諸侯を盟下に収め、覇者となった。
桓公の死後、孝公、昭公、懿公、恵公と桓公の子が相ついで君主になり、
国力をすり減らしていった間に、覇権は晋に移転していた。
崔杼が崔氏の当主になったのは、恵公のときであった。
壮くて見目が好いうえに才覚のあった崔杼は、恵公に寵愛された。
たれかに愛されると、他者から憎まれてしまうのであろうか。
斉の宰相である高氏と国氏は、崔杼に圧迫されるのではないかと畏れた。
紀元前五九九年に恵公が亡くなると、崔杼は追放され、衛へ出奔した。
のちにかれが慎重かつ大胆に政争をくぐり抜けることができたのは、追放された経験があったからであろう。
恵公の孫である霊公のときに、崔杼は斉へ復帰した。

大夫になる

大夫の慶克が、霊公の生母である声孟子と淫通した。
宰相の国佐は、そのことを知り、慶克を叱った。
「国子に叱られました」
と、慶克に泣きつかれた声孟子は、
「高氏と国氏らが謀叛を企んでおります」
と、霊公に訴えた。
霊公八年(紀元前五七四年)、霊公は高無咎を追放した。
すると、高無咎の子である高弱が、領地の盧で謀叛を起こした。
崔杼は霊公から討伐を命じられ、慶克を佐将として盧を攻め陥とした。
国佐は晋に従って鄭を攻めていたが、君命を棄てて帰国して慶克を殺し、穀で謀叛を起こした。
つぎの年に霊公は国佐を誅殺すると、慶克の子の慶封を大夫にし、国佐の弟である国弱に国氏を嗣がせた。

外 交

このころから、崔杼は外交を担当することになった。
霊公九年(紀元前五七三年)に、崔杼は宋の虚朾へゆき、晋の悼公が主宰する会同に参加し、
宋の内乱を治める相談をおこなった。
その結果、つぎの年に諸国は彭城を攻めたが、その戦いに斉が加わらなかったことを晋からとがめられたため、
斉は太子光を晋に人質に出すとともに、崔杼を鄭の鄫でおこなわれた会同に派遣した。
その際、かれは晋への不満を吐露した。
霊公十一年(紀元前五七一年)に、晋から鄭の虎牢に築城するとの通知を受けた。
崔杼は鄭の戚へゆき諸侯と会同し、虎牢に築城した。
霊公十五年(紀元前五六七年)に斉が萊を滅ぼすと、崔杼は萊の田地の検地をおこなった。
霊公十八年(紀元前五六四年)冬に崔杼は晋が率いる連合軍に加わり、反覆常ない鄭を伐った。
翌年も、晋は諸国の軍を招集し、鄭を伐った。
崔杼は、太子光を急がせて真っ先に駆けつけさせた。
そのため、太子光は会同で滕公よりも上席を与えられた。
霊公二十二年(紀元前五六〇年)、呉が楚に侵攻し、敗れた。
つぎの年、崔杼は呉の敗戦を受けて鄭の向で行われた会同に参加した。
晋の副宰相である士匄は、呉が楚の喪中につけこんで侵攻したことを責め、救援を拒んだ。

霊公の野望

羽毛の旌旗

霊公二十三年(紀元前五五九年)夏、崔杼は晋の招集に応じて軍を率いて秦を攻める軍に加わった。
国もとから数千里も離れていたこともあり、崔杼は積極的に兵を進ませなかった。
他国の兵も及び腰で、晋軍を主力とする連合軍は、秦軍に敗れてしまった。
後に”遷延の役”と呼ばれた退却しただけの戦いで、斉軍は羽毛で作った旌旗を立てて進軍していた。
その美しさにみとれてしまったのであろうか。
士匄が、旌旗を貸してくれるよう頼んできた。
崔杼はその申し出を容れ、士匄に旌旗を貸した。
しかし、士匄は旌旗を斉に返さなかった。
斉人はこれを恨み、晋の盟下から離れようとおもうようになった。
そのころ、衛の献公が大臣の孫林父に逐われて斉を頼ってきた。
霊公は献公をいたわり、かつての郲国に住まわせた。
ほどなく、晋から衛の戚で会同を行うという通知がきた。
その会同で、晋をはじめとする諸侯は、孫林父が擁立した新君の即位を認めた。
――逆徒を咎めない者を、盟主と仰げようか。晋は、もう恐れるに足りん。
斉は、晋との決別を覚悟した。

遠 征

霊公二十四年(紀元前五五八年)、斉の公女が周の霊王の后となった。
――周王の舅たるわれこそが盟主たらん。
気を大きくした霊公は、魯を攻めた。
魯が晋と最も親密な関係にあっただけに、この軍事は晋に対する挑発行為といえよう。
これで、斉と晋の戦争は決定的となった。
ところが、晋は魯を救うことができなくなった。
悼公が亡くなったからである。
幼い平公が悼公の喪に服す間、晋が兵を動かせないのをいいことに、霊公は連年魯を攻めつづけた。
霊公二十七年(紀元前五五五年)、悼公の喪が明けると、晋は諸侯の兵を集めて斉に攻め込んできた。
諸侯の大軍を前に、斉軍はなすすべもなく、首都の臨淄を包囲されたものの、敵の猛攻から都城を守り抜いた。

霊公の死

諸侯連合軍が去り、野望が潰え、失意の人となった霊公は、ほどなく罹病した。
霊公の夫人は子を産まなかったが、ともに嫁入した姪(兄の子)の鬷声姫が光という公子を産んだため、
太子に立てた。
また、仲子と戎子という妾がいて、霊公は戎子を寵愛した。
仲子が牙という公子を産み、牙を寵姫の戎子に委嘱した。
戎子はおのれへの寵愛を恃みに、牙を太子にするよう霊公に懇願した。
これを容れた霊公は光を廃嫡して東辺へ移し、牙を太子とし、高厚を牙の傅に、夙沙衛を少傅に任じた。
この廃替に不満を抱いた崔杼は光に同情し、霊公が罹病すると、光のもとに使者を遣り、
「君が病気になられました。都にお帰りくだされ」
と、ひそかに光を都に迎え入れ、霊公が重態になると、太子に戻した。
光は戎子を殺し、屍体を朝廷にさらした。
寵妾を喪った霊公は、失意のうちに衝撃で亡くなった。

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