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HOME//ブログ//中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(6) 貶謫

中国史人物伝

中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(6) 貶謫

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白居易は若いころ寒門の出であったことで苦労したため、

仕官してからはことさらに出世を求め、職務に精励してきた。

ところが、母の死に偶って下邽に退居し、俗世と隔絶するようになると、

自適の暮らしを送ることのなんと素敵なことか。

朝には眠り足りて始めて起き 夜は酌み酔えば即ち休む
(朝は眠り足りるまで起きず、夜は酒に酔ってから休む)

人心は適なるに過ぎず 適外に復た何をか求めん
(意のままに過ごすことにまさるものはない。ほかに何を求めようか)
(「適意二首 その一」)

適意に目覚めた白居易は、尊敬する詩人陶淵明の閑居の精神に学びながら、

生きることの喜びを詩に詠むようになった。

中国史人物伝シリーズ

白居易(1) 寒門
白居易(2) 科挙
白居易(3) 仕官
白居易(4) 長恨歌

目次

復 帰

白居易は元和九年(八一四年)の春に喪を除き、長安に戻ると、太子左賛善大夫(従四位下)を拝命した。
太子左賛善大夫は、太子の顧問官で品階は高いが、政権中枢からは遠い閑職であった。
白居易は昭国里に家居を借りて、宮仕えに復帰した。
元和十年(八一五年)の正月、江陵府士曹参軍の元稹が都に呼びもどされた。
五年ぶりに親友と会った白居易は、
――容貌も心情も衰えてしまった。
と、嗟歎(悲しむ)した。中央に復帰できないとおもっているからであろう。
はたして、三月二十五日に元稹は通州の司馬に任ぜられ、三月三十日に長安を発った。
白居易は長安の西を流れる灃水の近くの蒲池村まで元稹を見送った。
元稹と別れてから都城の門に到ると、
別れの酒の酔いも醒めて、離恨(別れの悲しみ)が一気に胸にわき出した。

貶 斥

この当時、
淮西節度使 呉元済
成徳軍節度使 王承宗
平盧軍節度使 李師道
という三つの藩鎮が朝廷と対立し、独立国のようになっていた。
この状況を打開すべく、憲宗は宰相の武元衡と諮り、元和十年(八一五年)に呉元済を討伐する軍を発した。
白居易もこれを支持した。
そんななか、都人士を恇懼(恐れる)させるような事件が勃った。
六月癸卯(三日)未明、武元衡が宮中へ参内しようとして、
靖安里の自宅を出たところを刺客に襲われ、絶命した。
凶報を宮中で知った白居易は、帰途に現場に立ち寄り、午前のうちに上疎をおこない、
「速やかに賊を捕らえ、朝廷の恥を拭いなさいますよう」
と、訴願した。これが、
「出すぎたまねをしおってからに」
と、宰相を不快にさせた。太子付の官僚が容喙するような事案ではないということである。そこに、
「白居易は、母が井戸に堕ちて死んだというのに賦を詠むような男で、
その言は浮華にして実行できるものではなく、用いるべきではありません」
と、いいだす者まであらわれた。飛語である。
しかし、日増しに高まる藩鎮討伐支持者への誹謗中傷の声に、憲宗も抗しきれなくなり、
白居易は州刺史として地方に出されることになった。
さらに追い打ちをかけるように、中書舎人の王涯が、
「郡を治むるに宜しからず」
と、上言した。刺史にしてはならない、というのである。
そこで、七月末に、白居易は江州の司馬に貶されることに決まった。
州の行政官は、刺史、別駕、長史、司馬という序列になっていた。
要するに特段の職務のない冗官への貶斥であり、むしろ政治犯に対する処罰に近い。
この人事は、日ごろから諷諭詩により政事への批判を展開していた白居易に対する
重臣らの鬱積した悪感情の発露といってよい。

秋 風

貶謫の詔勅が下されれば、ただちに都から出なければならない。
八月のはじめに、白居易は家族よりも先に覇城門から都を発った。
驪山の麓にある望秦嶺を過ぎると長安が見えなくなる。
そこで白居易は、詩を詠んだ(「初めて官を貶され望秦嶺を過る」)。
草草として家を辞し後事を憂ふ(あわただしく家を出て、後のことを心配する)
遅遅として国を去り前途を問ふ(重い足取りで都から去り、これからのことを心配する)
望秦嶺上  頭を迴(めぐ)らして立てば(望秦嶺に立って、都のかたをふりかえると)
限り無き秋風  白鬚(しゅ)を吹く(白いあごひげをなびかせるほど秋風が吹きすさぶ)
藍田関を通り、商山を越え、商州に到ったところで、白居易はとどまって家族がくるのを待った。
そこからは家族とともに武関を通り、陸路を取って襄陽までゆき、襄陽から船に乗り、漢水を下り、
夏口から長江に入り、三百五十里(約二百キロメートル)ほど下り、
十月のはじめに白居易は江州に着いた。
こうして、かれは二七六〇里(約一五四五キロメートル)もの道程をこなしたのであった。

自選詩集

白居易は、江州の州治である潯陽城内に居を定めた。
江州刺史の崔能が、著名な詩人として敬意をもって接してくれたので、
白居易は江州で肩身のせまい思いをすることはなかった。
とはいえ、特にすることがなく、暇をもてあましがちであった。そんななか、
「これまで詠んだ詩を、まとめよう」
と、思い立ち、詩集編纂に没頭した。
白居易初の自選詩集は十二月に完成し、友人の元稹と李紳に送った。
そこには、約八百首の詩が収められていた。

廬 山

潯陽の南に、廬山とよばれる山がある。
周代に匡俗という人がこの地に住み、修行の末、不老不死を得て仙人となり、天へのぼった。
そのあとに、かれが住んでいた廬が残されたことからそう名づけられた山の麓に、
白居易が尊敬する詩人陶淵明の旧居がある。
元和十一年(八一六年)の春になると、白居易は廬山に遊び、柴桑や栗里といった陶淵明ゆかりの地を訪ね、
「陶公の旧宅を訪ふ」
と、題する詩を詠み、陶淵明の遺風を慕った。

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