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中国史人物伝

中国初の薬物中毒者 ナルシストな貴公子 何晏(三国 魏)

日中平和友好条約締結から20年になる1998年(平成10年)に、

中国の江沢民国家主席が国賓として来日した。

来日する海外首脳の多くは、東京での日程を終えた後に京都を訪れたが、

このとき江主席が訪れたのは、仙台と札幌であった。

東北新幹線に乗車して来仙した江主席は、近代中国を代表する文豪・魯迅の学び舎

(現在の東北大学本部)を訪れ、当時に思いを馳せたらしい。

医学を志して留学した仙台で文学への転向を決意した魯迅は、1927年に広州で、

「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」

と、題して行った講演のなかで、

「魏晋期に薬物の服用がはじまり、当時の風俗に影響を及ぼした」

と、語っている。

その嚆矢が、魏の清談(世俗にまみれない哲学論議)の祖とされる
何晏(あざなは平叔)(?-249)
である。

曹操の女婿でもあるかれは、五石散(寒食散)という薬に溺れた。

何晏は自他ともに認める色白の美貌をもつファッションリーダーで、

みなが争うようにかれのまねをしたため、五石散は大流行した。

(日本には、唐の高僧鑑真により伝えられた。)

ところが、この薬は”危険ドラッグ”で、服用後が大変であったらしい。

流行とは、そこまでして乗らなければならないものなのであろうか?

中国史人物伝シリーズ

目次

正始の名士

何晏は南陽の出身で、後漢末の大将軍何進の孫であった。
父を亡くした後、母の尹氏が曹操の側室になり、後宮にはいった。
連れ子の何晏は宮中に引き取られ、曹操にわが子同然に育てられ、女の金郷公主を娶った。
何晏は若くして秀才と評判され、弁才で名をあげた。
一方、何かにつけ太子曹丕と張りあったため、曹丕から嫌われ、
「養子」
と、呼ばれ、道楽者であったこともあり、任用されなかったばかりか、明帝(曹叡)からは、
――うわべだけで、内実がない。
と、評され、閑職しか授けられなかった。
何晏は、曹操の女婿でありながら思うように出世できない鬱憤を晴らすかのように学問に打ちこんだ。
老荘思想を好むかれは、『(老子)道徳論』を作り、『論語』の注釈書『論語集解』を編纂し、
文や賦を著す一方、鄧颺や丁謐ら不遇を託つ者たちと徒党を組み、巷間で名声を売った。

自己愛の塊

何晏は自己愛が強く、常に白粉を携帯し、歩いている最中にもおのれの影をふりかえりながめるほどであった。
何皇后が美貌で霊帝に寵愛されたことを想えば、何氏はそういう家系であったのかもしれない。
容貌のみならず、皇室に連なる毛なみのよさと弁才に巷間の名声が相まって何晏は衆人の羨望の的となり、
世人が争うようにこの貴公子のまねをした。
何晏は、自身と同様の評判を得ていた夏侯玄や司馬師らと交際していた。
「ひたすら深い。ゆえに天下の志に通じる」というのは、夏侯太初(玄)のことじゃ。
「ひたすら微妙である。ゆえに天下の仕事ができる」というのは、司馬子元(師)のことじゃ。
かれは、『易』(繫辭上伝第十章)を引用してふたりをそのように評した後、こうつづけた。
――「ひたすら神秘である。ゆえに疾くしなくても速く、行かずして至る」という語を聞いたことがあるが、
そんな人、みたことがない。

栄 枯

正始(二四〇―二四九年)になると、何晏は大将軍の曹爽に取り入って重用され、
散騎侍郎(尚書の上奏文を処理する官)に任用された。
その後、司馬懿を太傅に祭り上げ、曹爽に権力が集中するようになると、
何晏は鄧颺や丁謐とともに尚書(皇帝の秘書官)に昇った。
何晏は官吏の任用権を手にすると、賈充・裴秀・朱整ら旧くから交際した者たちを多く擢用した。
かれらは権力を独占し、これまでの鬱憤を晴らさんばかりに横暴にふるまい、
公有財産をわがものにしたり、州郡に賄賂を強要したりした。
また、仲が悪かった盧毓の部下が些細な過失を犯すと、それをあげつらって盧毓を罪に抵てた。
このように、かれらは曹爽の権勢を背に幅をきかせた。
しかし、栄華は長く続かなかった。
正始十年(二四九年)正月に、曹爽らはこぞって都を空けた隙を司馬懿に衝かれ、失脚した。
「謀叛人を裁け」
何晏は司馬懿からそう命じられ、
――自分だけは宥してもらおう。
と、おもい、曹爽らを厳しく裁いた。
「全部で八族じゃ」
司馬懿がそういったので、何晏が鄧・丁らの姓を書き出すと、七族であった。
「まだいるぞ」
司馬懿にそういわれ、何晏は窮して、
「わっ、われのことでしょうか」
と、おそるおそるたずねた。
「さよう」
こうして何晏は逮捕され、大逆罪で曹爽らとともに処刑された。

中国初の薬物中毒者

『世説新語』(言語篇)によれば、何晏は、
「五石散を服用すれば、病気が治るだけでなく、気もちよくなる」
と、いった。
五石散は、後漢の張仲景が発明した漢方薬で、
石鍾乳・石硫黄・白石英・紫石英・赤石脂
という五つの「石」を含んだものであるが、あまりにも高価であったため、服用する人は少なかった。
それをからだが弱かった何晏が調合して飲むと、元気で丈夫になった。
さらに、配合を変えて試したところ、気分が昂揚したらしい。
世人は、何晏がすることを争うようにまねた。
そのため、五石散は大流行した。
すると、副作用で死ぬ者が続出した。
五石散には非常に強い毒性があり、扱いが大変であった。
五石散を服用したら、歩かなければ効果が出ない。休めば死んでしまう。
歩いたら発熱し、その後悪寒がするが、厚着をすると死んでしまう。
寒気がしたら冷たいものを食べ、服を脱ぎ、冷水で行水し、熱い酒を飲まなければならない。
五石散を服用すると、皮膚が熱くなり、剝けやすくなる。
それゆえ、新しい服が着れず、着古したゆったりした服を着る。
洗濯をあまりしないから、虱がわく。
そのため、虱を掻きながら談ずるのが当時の流行になった。
「書聖」と称された王羲之も五石散の愛用者で、服用後の症状を詳細に記録した。

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