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中国史人物伝

物語では虞翻に見限られ、孔明に論破されて憤死した儒家官僚 王朗(三国 魏)(1) 会稽太守

小説、漫画、映画など様々なコンテンツで『三国志』の世界に浸っている日本人は多い。

TVゲーム『三國志』も幅広い年代から根強い人気があり、シリーズ化され、現在に至っている。

かくいう私も、プレイヤーが群雄になりきって天下統一を目指すという

壮大なストーリーに魅了され、時が経つのも忘れてのめりこんだものである。

そういえば、弱小ゆえ開始早々隣国に攻め滅ぼされる"泡沫"君主も何人かいた。

そのひとりが、
王朗(あざなは景興)(?-228)
である。

吉川英治『三国志』では、部下の虞翻(あざなは仲翔)から

「次の時代に用のないお方だ」(草莽の巻 名医)

と、断じられながらも、曹魏三代で宰相にまで昇った王朗の物語における最期は、

戦場で諸葛孔明と論戦し、論破されて憤死するというみじめなものであった。

中国史人物伝シリーズ

古の狂直 虞翻

目次

仕 官

王朗は徐州東海郡郯県出身で、もとの名は王厳といった。
おなじ徐州出身の趙昱や張昭とともに名を知られ、たがいに親交を結んだ。
経書に通じていることから郎中(護衛官)に任じられた。
当時は、五官中郎、左中郎、右中郎の三署の郎から選んで県長を補任する通例で、
王朗は趙昱(莒県の長)、劉繇(下邑県の長)、臧洪(即丘県の長)らとともに
葘丘県(徐州彭城国)の長に任命された。
その後、王朗は太尉の楊賜に師事したが、楊賜の幕下では孔融と同僚であった。
中平二年(一八五年)に楊賜が亡くなると、王朗は官を棄て、喪に服した。
喪を除いた後、孝廉に推挙され、三公の府に辟召されたが、応じなかった。
だが、徐州刺史の陶謙から茂才に察挙されると、その治中(人事部長)となった。

朝 命

ときに献帝は長安におわし、関東で兵乱が起こっていた。
陶謙は朱儁を反董卓の旗頭に仰いでいたが、初平三年(一九二年)に董卓が誅殺され、
董卓の部将であった李傕と郭汜が政権を掌握すると、朱儁が長安に入朝してしまった。
そこで、王朗は別駕(副知事)になっていた趙昱らとともに、
「『春秋』の義によれば、諸侯を求めるなら勤王にまさるものはございません。
いま、天子は西京(長安)におわします。使者をお遣わしになり、王命を奉承すべきです」
と、陶謙を説いた。
陶謙がそれを容れて趙昱を長安に遣わしたところ、
陶謙は安東将軍に、趙昱は広陵太守に、王朗は会稽太守にそれぞれ任じられた。
この叙任は、李傕らの政策によるものであろう。
李傕は、袁紹や曹操が勢力を拡げていることに危機感をいだいていた。
そこで、袁術や公孫瓚と連携し、袁紹と対立していた陶謙を取り込み、
広陵や会稽など沿海の地を抑えさせて袁紹や曹操を封じこめようともくろんだのかもしれない。
会稽郡のある揚州の刺史に劉繇が任じられたのも、このころのことである。

会稽太守

初平四年(一九三年)、王朗は太守として会稽に赴任した。
会稽には、古来より秦の始皇帝を祀る風習があった。
「徳のない君で、祀るべきではない」
王朗はそう判じ、始皇帝の祭祀をやめさせた。
王朗は会稽を四年治め、民を恵愛した。
近隣の郡は戦乱が熄まず、平穏な会稽に逃れてくる者が少なくなかった。
丹楊太守であった周昕が逃れてきたり、董卓と折り合いが悪くなり、関東へ逃れた許靖を匿ったりした。

孫策襲来

建安元年(一九六年)、孫策が会稽に侵攻してきた。
「邀え撃たん」
と、述べた王朗のもとに、喪に服していた功曹(人事部長)の虞翻が駆けつけ、
「力ではとうていかないません。戦いを避けるのがようございます」
と、訴えてきた。だが、王朗は、
「われは漢の吏ゆえ、城邑を保つべきじゃ」
と、言下にしりぞけた。
――正義は、われにある。
たとえ賊のほうが強大で敗戦必死であったとしても、
郡守ともあろうものが、一戦もせずに賊を避けられようか。
だが、賊の兵力は、城下の手勢で十分抗することができる程度にすぎない。
それに、前年劉繇を敗ったとはいえ、孫策など、たかが袁術の客将にすぎぬ。
それなのに、劉繇はじめ朝廷が任命した役人をつぎつぎに放逐している。
太守の職にある者として、それを看過するわけにはいかない。
直にして枉邪を邀え撃つのである。
これで敗れれば、正義はどこにあるというのか。
そんな信念に突き動かされるように、王朗は兵を挙げた。

敗 戦

王朗は、浙江の南岸にある固陵に迎撃の陣を布いた。
孫策は何度も浙江を渡って攻めてきたが、王朗はその都度拒ぎ切った。
それでもなお、孫策は攻撃の手をゆるめない。
昏暮になると、孫策の陣におびただしい数のかがり火が焚かれた。
「夜襲があるぞ」
王朗はそういって兵に警戒させたが、敵の来襲がないまま夜明けを迎えようとしていた。そこへ、
「高遷の陣が襲われました」
という注進がはいった。
それをきいて王朗はおおいにおどろき、周昕らを高遷の救援にむかわせたが、
孫策の軍に破れ、戦死してしまった。
こうなると、勢いに乗る孫策のまえになすすべがなく大敗し、王朗は船で海上に逃れ、東冶へ至った。
(『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」によれば、倭国は東冶の東にある、とされる。)
ところが、そこでも孫策の追撃を受け、またも大敗してしまった。
王朗は観念して孫策のもとに出頭し、難詰されたものの、生命までは取られず、曲阿に留め置かれた。
ときに、孫策は皇帝を僭称する袁術からの独立を図っており、
物資に事欠きがちななか、王朗は親戚や旧知の者を呼び集め、救恤につとめた。

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