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中国史人物伝

諸葛の狗 八達のひとり 司馬氏の専横に抗した皇帝の曽祖父 諸葛誕(三国 魏)(2) 狗の血

諸葛誕(1) はこちら>>

甘露2年(257年)、諸葛誕は寿春で決起した。

王淩や毌丘倹の失敗に学んだかれは、十余万の兵と一年分の糧食を集め、

呉に救援を仰ぎつつ、城門を閉じて守りを固めた。

まさに周密といってよい戦略であった。

人事を尽くしたかれに、どのような天命がくだるのか。

中国史人物伝シリーズ

目次

寿春攻防戦

甘露二年(二五七年)六月、大将軍の司馬昭が、二十六万の兵を率いて寿春にあらわれた。
司馬昭は城を二重に包囲するとともに、濠を深くして非常に高いとりでを築いた。
それをみて、
「攻めなくても、ひとりでに敗れよう」
と、諸葛誕はほくそ笑んだ。
この時期は連年、大雨により淮水が溢れ、寿春の城邑が浸水した。
ところが、この年はひでりがつづき、雨が降るけはいがいっこうにない。
――このままでは、まずい。
文欽らが何度か出撃して包囲網を突破しようと試みたが、司馬昭に阻まれ、逃げもどってきた。
呉の将軍朱異が、諸葛誕を救わんと二度も大軍を率いてきたが、二度とも兗州刺史の州泰に阻まれた。
そのため、呉の大将軍孫綝に殺されてしまった。

爪牙の将

十一月になった。
城中の糧食は少なくなり、外援もなく、士気が著しく低下した。
「朱異らが大軍を率いながら進めなかったので、孫綝は朱異を殺して江東に帰ろうとしております。
外部にむけては援兵を発したと喧伝しておりますが、内実は坐してなりゆきを看過しているだけです。
みなの気もちがまだ堅固で、兵卒の士気が高いいまのうちに、力をあわせて決死の覚悟で
一方面に集中攻撃をかけるのがようございます。完勝できずとも、助かる者はおりましょう」
と、将軍の蔣班と焦彝が、諸葛誕に進言した。ところが、文欽が、
「江東(呉)は久しく戦勝の勢いに乗っており、まだ北方(魏)を強敵とおもう者はいない。
まして公(諸葛誕)が十余万の兵をあげて内属したうえに、われと全端らはみなともに死地におり、
父子兄弟はみな江表(呉)にいる。孫綝が帰りたいとおもうても、主上(呉帝)や親戚らが聴きいれまい。
それに中国(魏)に変事のない歳はなく、軍も民も疲れている。
われらを包囲しはじめてから一年、勢いはすでにゆきづまり、異心が芽生え、
変事がいまにも起ころうとしている。日を数えて待っておればよい」
と、楽観を述べた。それでも、蔣班と焦彝は、
「撃ってでましょう」
と、主張しつづけた。
「くどいぞ」
と、文欽が怒り、諸葛誕も蔣班をうるさくおもい、殺そうとした。
蔣班と焦彝は、ほどなく城外へ去った。

決死の攻防

蔣班と焦彝のすがたが、城内から消えた。
諸葛誕の爪牙となって策謀をめぐらしていたふたりに見限られてしまい、
――諸葛誕には、頽勢をめぐらす望みがもはやない。
ということが、敵味方に明白になった。
おどろくのは、それだけではない。
呉の援軍の将全懌らが手勢数千をひきつれ、城門を開いて司馬昭に投降したのである。
想いがけない事態の連続に、城中は震懼し、なすすべがなかった。
ひでりが続くなか、年があらたまり、甘露三年(紀元前二五八年)正月になった。
「蔣班と焦彝は、われらが城を脱出することはできないとおもうて逃げ去った。
全端や全懌は、手勢をひきつれて投降した。いまなら、敵に備えがない。戦うべきだ」
文欽がそう提案すると、諸葛誕や唐咨らもみな賛同した。
諸葛誕は兵器を大量につくらせて、文欽や唐咨らとともに五、六日にわたって昼夜わかたずに南側を攻め、
包囲を突破しようとした。
司馬昭の軍は高所に陣取り、発石車(投石車)や火矢で迎え撃ち、諸葛誕の軍の兵器を焼きはらい、
矢や石が雨のように降り注ぎ、死傷者が地を蔽い、流れでた血が塹壕に盈ちた。
諸葛誕らは力戦をあきらめ、城内に引き返すしかなかった。

軋 轢

城内の糧食はついに単竭し、城を出て降伏する者は数万人におよんだ。
「北方の人をみな追い出して、呉人とともに堅守したい」
文欽はそう主張したが、諸葛誕は聴き容れなかった。
以後、ふたりは反目し、恨みあうようになった。
ふたりはもとから折り合いが悪かったが、危急に瀕して、たがいに疑念を抱きあうようになった。
――殺らなければ、殺される。
そう悟った諸葛誕は、文欽を殺した。
文欽の子文鴦と文虎は、城壁を踰えて脱出し、司馬昭に帰服した。
文鴦と文虎は馬を馳せて城をめぐりながら、
「文欽の子でさえ殺されなかったんだ。他の者が何を懼れようか」
と、呼びかけてきた。
城内は喜び、かつ騒がしくなった。
また、日を経るごとにますます飢えに困しむようになり、諸葛誕や唐咨らの智力も尽きてしまった。

二月乙酉(二十日)、司馬昭の軍が四方から攻めよせ、いっせいに陣太鼓を鳴らし、
喊声をあげて城壁を登ってきた。
これに対し、城内の兵はみな、みじろぎひとつしなかった。
――もはや、これまでか――。
追いつめられた諸葛誕は、馬に乗り、麾下を率いて小城の門を突破して撃ってでた。
しかし、大将軍司馬の胡奮の兵の返り撃ちに遭い、斬られてしまった。
呉の援軍の将であった唐咨は、捕らえられた。
諸葛誕の麾下数百人は、降伏を勧められた。
だが、たれもが、
「諸葛公のために死ぬのだ。恨みはない」
と、いって拒み、諸葛誕のあとを追った。
諸葛誕は、それほど人心を得ていたのである。
諸葛誕が待ち望んでいた大雨が、城が陥ちたとたんに降りだして、とりでが全部崩れ去ってしまった。
降伏した呉兵は、万を超えた。

狗の血

魏の有力者たちは、たがいに姻戚関係を結んでいた。
諸葛氏と司馬氏も例外ではなかった。
そのためか、三族が皆殺しにされたとはいえ、諸葛誕の血胤が途切れることはなかった。
諸葛誕の女は、司馬昭の弟である司馬伷の夫人であった。
ゆえに、かの女は罰せられなかった。
そればかりか、孫の司馬睿が皇帝(東晋の元帝)となったことで、諸葛誕の血が帝室に流れることになった。
また、呉へ逃れた諸葛靚の子諸葛恢(道明)は、東晋で尚書令(宰相)の高位に昇った。
心ならずも罪人にされた諸葛誕の子孫が同時に皇帝と宰相になったことを、どう評すればよかろうか。
諸葛誕は、野心家というより能吏であった。
かれは魏朝に反逆したわけではなく、司馬氏との政争に敗れたのである。
魏は諸葛氏の狗を得た、と世人は評したという。
狗は邪霊に敏感で、地中の悪霊から死者を守護するとされ、清めのための犠牲に用いられる。
諸葛誕の血胤が帝室に流れ、子孫や国家を守護したと考えれば、この世評は言い得て妙なのかもしれない。

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