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中国史人物伝

史上初めて麻酔を用いて手術を行った⁉『三国志』の名医 華佗(後漢)

『三国志』屈指の名将 関羽は、魏との戦いで矢傷を負った。

矢には毒が塗られていたらしく、なかなか傷が治らない。

そこで招聘されたのが、名医のきこえが高かった

華佗(あざなは元化)

であった。

「毒が腕の骨にしみこんでおりますゆえ、傷口を切開し、骨を削らなくてはなりません」

華佗はそう診立て、麻酔をすることを提案したが、

「そんなもん、いらん」

と、関羽は腕をさしだした。

華佗が骨を削り毒を除くあいだ、関羽は酒を飲みながら碁を打っていた。

関羽の武勇を伝えたこの話は、ひとつを除いてほぼ史実である。

それは、執刀医がたれかわからない、ということである。

このとき、華佗はすでに死去していたとおもわれる。

それでも、名将の生命の危機を名医が救ったことにすれば、

話がおもしろくなるし、殺伐なにおいも消え失せようというものである。

それほどの名声があった華佗とは、いったいどんな人物であったのか。

中国史人物伝シリーズ

中国医学の基礎を築いた伝説的名医 扁鵲

目次

遊 学

華佗は沛国譙県の出身で、徐州へ遊学し、いくつかの経書に通じた。
沛国の相(長官)陳珪から孝廉に推挙されたり、太尉の黄琬から辟召されたりもしたが、
いずれにも応じなかった。
養性の術に通じていたらしく、百歳になろうというのに、外貌は壮容を保っていたという。
(後年、華佗が神仙に模されるのは、このあたりにあるのではないか)
じつは、遊学中、かれは医術も学んだようである。
これは、現在でいう薬学や鍼灸も含めたものであったらしい。
しかも中国に伝承された医学にとどまらず、
シルクロードを通じて西方からもたらされた医術にも関心をいだき、習得したのではあるまいか。

方 技

華佗は方薬(調剤)に精通し、薬剤はわずか数種類しか治療に用いず、目分量で調合し、秤は用いなかった。
薬が煮えたら患者に飲ませ、予後について話してから去ったが、すべて治癒した。
灸は、一、二か所に多くて七、八回すえるだけで治った。
鍼も、一、二か所にうつだけで、
「痛くなったら、いいなさい」
と、患者にいい、患者が痛みを訴えれば、鍼をぬいた。
たったこれだけで、しばらくすると病は癒えた。
病巣がからだの奥深くにとどまってしまい、鍼や薬ではどうにもならず、
切開しなければならないような場合には、酒に麻沸散という薬剤を含ませて患者に飲ませた。
麻沸散はいわゆる麻酔薬で、これを飲むと、酔って死んだように感覚がなくなる。
そうなってから、施術をおこなった。
病が腸のなかにある場合は、腸を取り出して洗浄し、縫合して膏薬を塗ると、
四、五日で痛みがなくなり、ひと月すると平癒した。

神 医

華佗のいわば奇天烈ともいえる診療については、史書に列挙されている。

そのなかで、特に興味深い話をいくつかとりあげる。

虚実を診る

太尉府の役人である児尋と李延が、ともに入院した。
ふたりとも頭が痛くて熱があるという。
「児尋には下剤を、李延には汗をかかさなあかん」
これが、華佗の診立てであった。
「おなじような症状やのに、なんで扱いがちゃうねん」
まわりからそう非難されると、華佗は、
「児尋は外実(内虚)、李延は内実(外虚)や。せやさかい、治療法はちゃうんや」
と、返した。
はたして、ふたりに薬を与えると、つぎの日にはそろって退院できた。

寄生虫病

華佗が車で出かけていると、すれちがう車からうめき声がきこえた。
華佗が車を駐めさせて、
「どうしたんや」
と、たずねたところ、
「病でのどがつまり、食べたくてものみこめへんねん」
と、病人の家人が応えた。
「どれ、どれ」
華佗は、病人を診察し、
「この道をもうちょっと進んだら、餅屋がある。そこに蒜(にんにく)を漬けた酢があるさかい、
三升(約六デシリットル)ほど飲ませたら、すぐにようなるやろ」
と、家人に語げた。
すぐさまそうすると、病人が一匹の虵(へび)を吐き出した。

病は気から?

とある郡の太守が、罹病した。
――ようけ怒ったら、ようなるやろ。
華佗はそう判じ、多額の治療費をもらっておきながら何も処置をしなかった。
そればかりか、太守を罵倒するような手紙だけを残し、あいさつなしに去っていった。
「華佗を捕まえて、殺せ」
そう役人に命じた太守は、怒りをつのらせ、黒い血を数升も吐いた。
それで、病が平癒した。

神医の本懐

評判が広まると、華佗は曹操に召し出され、侍医としてつねにそばにつき従うようになった。
曹操には頭痛の持病があり、発作がおこるたびに心乱れ、目が眩んだ。
しかし、華佗が鍼を打つと、とたんに痛みが引いていった。
「うわさにたがわぬ名医じゃ」
同郷ということもあり、曹操は華佗を気にいり、専属の主治医にしようとした。
ところが、華佗は、
――病に苦しむすべての人びとを救いたい。
と、心に念っていた。
華佗は士の身分にありながら、医師としてしか扱われないことを、いつも悔しがった。
封建社会においては、医術や芸能など、一芸に秀でた者は、
士農工商よりもさらに下の身分におかれ、軽んじられていた。
これは、中国だけでなく、日本でも同様であったようである。
華佗は、御伽衆としてではなく、士として曹操から敬意を払ってもらいたかったのである。

逮 捕

華佗は、いつものように曹操によばれ、診察をした。
「これを完治させるのは難しいです。治療をすれば、ご寿命を延ばすことはできます」
そう話した華佗は、長く家を離れていたこともあり、帰りたいきもちがつのり、
「家にある書と処方が必要です。みつかれば、また還ってまいります」
と、曹操に願い出た。
許可を得て家に帰ると、華佗は、
「妻が病になりましたゆえ」
と、休暇の延長を申し出て、曹操のもとへ戻らなかった。
曹操から幾度となく召還命令がくだされた。
だが、華佗はおのれの技能をたのみにして、他人の禄を食むことをいとい、腰をあげようとはしなかった。
そうするうちに、曹操から遣わされた使者にうそがばれて捕らえられ、許の獄に送られた。

致 死

取り調べにたいし、華佗は自白した。
「華佗の医術は、人命を左右できるほど巧みです。ここは大目にみていただきますよう」
荀彧がそうとりなしたものの、曹操は、
「案ずるな。天下にこんな鼠のようなやつがほかにいやしないなんてことがあろうものか」
と、翻意しなかった。
宦官の孫とよく揶揄され、軽侮された人のこころの痛みを理解していたとおぼしい曹操でさえ、
そのような発言をしたのであるから、医師への認識が現在とは大きく異なっていた、というしかない。
ともかくも、華佗はむごい拷問にかけられ、死に致った。
――せめて、わが術だけでも。
華佗は、死ぬ間際に、一巻の書を取り出し、
「これで人を生かすことができる」
と、いい、獄吏に与えようとした。
しかし、獄吏は後難を畏れ、受け取らなかった。
――これも、定めか……。
諦観した華佗は、手ずから書を焼いてしまった。
華佗は、おのれの医術を他人に公開することを嫌がった。
それゆえ、かれの医術は後世に伝わらず、以後、長きにわたり、外科治療は発展しなかった。

曹操は頭が痛くなるたびに華佗のことを憶いだし、
のちに愛子曹沖の病が重くなったとき、華佗を殺してしまったことを悔やんだという。

華岡青州の師表

現代の外科治療に欠かせない麻酔を用いた手術には、たいへん高度な技術が必要である。
初めて全身麻酔手術に成功した人物は、じつは、
華岡青州
という日本の医師であった。
かれは華佗の麻沸散に着想を得て、通仙散という麻酔薬を創り、全身麻酔による乳がん摘出の手術に成功した。
華佗の事績が事実であれば、
華岡青洲よりも千五百年以上もまえに全身麻酔による開腹手術が行われていたことになるが、どうであろうか。
華佗の死後、長きにわたり、外科治療は発展しなかった。
華佗の医術が後世に伝わらなかったこともあるかもしれないが、
それゆえ、華佗には伝説の名医という心証が拭えない。

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