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中国史人物伝

民意に従い、王命に逆らって秦に抗った気骨の士 馮亭(戦国 韓・趙)

古代中国で最大の戦争ともいわれる長平の戦いは、

上党

という地の帰属をめぐる争いであった。

太行山の西北に広がる高地で、

天と党をなすほど高いという意でそう名づけられた上党には、

西の黄河から趙の首都邯鄲に通じる要路が走っていた。

中国の勢力関係を激変させ得る戦いの引き金となったのは、

秦に対する住民たちの根強い反感であった。

中国史人物伝シリーズ

長平の戦いで趙軍を帥いた 趙括

目次

秦軍の侵攻

周王室が諸侯を統制する力を失ってから、中国には群雄割拠の時代が長くつづいた。
紀元前三世紀にはいると、西方の大国である秦だけが強く、諸国は秦の顔色をうかがい、
秦と講和するかとおもえば、ときには各国が合従して秦に対抗することもあった。
紀元前二六五年に秦の宰相になった范雎は、遠方の国と和し、近隣の国を攻めるという遠交近攻策を採った。
秦に最も近い国は、韓である。
翌年、秦は、名将白起に韓を攻略するよう命じた。

上党郡

韓の版図は瓢箪のような形をしており、くびれているあたりが、南陽地方である。
南陽は、洛陽からみれば河水の対岸に位置し、
太行山脈の南、河水(黄河)の陽(北)にあることからそうよばれる。
ここを、紀元前二六三年に、白起の軍に抜かれた。
これにより、韓は南北に分断され、通交が遮断されてしまった。
すなわち、北部にあたる上党郡が、韓の国都のある南部と切り離され、孤立したのである。
――上党は、諦めるほかあるまい。
韓の桓恵王はそう判じ、城陽君を遣り、
「上党の地をお譲りいたしますゆえ」
と、范雎に講和を申し出るとともに、韓陽を上党へ遣り、
「上党の地を、秦へ引き渡せ」
と、太守の靳黈に命じた。
「臣は太守です。兵を総動員して秦と戦わせていただきます。上党を守り切れなければ、死ぬまでです」
靳黈はそう抗弁し、命を拒んだ。
韓陽の復命を受けた桓恵王は、
「われは、もう応侯(范雎)に承諾してしもうた。渡さねば、欺いたことになる」
と、いい、靳黈を罷免し、
「なんじを上党の太守に任じる。かの地を、秦へ引き渡すよう」
と、馮亭に命じた。

機 転

紀元前二六二年、馮亭は上党に赴任した。
上党の住民は秦を忌み嫌い、王命であっても従わぬという気配すらみせた。
――しからば――。
一計を案じた馮亭は、趙へ密使を遣り、
「韓は上党を守り切れず、秦に与えようとしております。
されども、上党の吏民は秦に仕えたいとはおもわず、趙にお仕えしたいと願っております。
上党には、城邑が十七ございます。願わくは、これらを大王に拝納させていただきたく存じます」
と、孝成王に申し入れた。
上党は、秦だけでなく、趙にも接していた。
そこで、上党郡単独で秦に抵抗するのではなく、趙に保庇を願いでたのである。

三不義

趙の孝成王は年若く、喪を除き、聴政の席についてからまだ日が浅かった。
しかも、胡服騎射を採用した祖父の武霊王にあこがれ、武を尚ぶところがあった。
そのため、馮亭の使者の口上をきいて、
「戦わずして広大な地が得られるとは――」
と、喜び、叔父の平原君(趙勝)を遣わし、
「太守を三万戸の都邑に封じ、県令を千戸の邑に封じ、諸吏はみな爵を三級進め、
とどまる民には、家ごとに六金を下賜しよう」
と、詔命をくだした。
満座は、どっと湧いた。
馮亭は涙を流しながら平伏し、
「これでは、われは三つの不義を背負うことになります。
主のために地を守りながら死守できず、人に与えてしまったのが、その一。
主が上党を秦へ納れたのに、その命に従わなかったのが、その二。
主の地を売ってそれを食むのが、その三です」
と、いい、封禄を辞して韓へもどり、
「趙は、韓が上党を守ることができないと聞いて、兵をだして上党を奪い取りました」
と、桓恵王に告げた。
桓恵王がこのことを秦に伝えると、秦は大軍を発し、上党に侵攻してきた。

長平の戦い

上党を守るべく、趙の名将廉頗が軍を率いて長平に駐屯した。
長平の戦い
と、よばれるこの戦いは、足かけ三年もの長きにおよんだ。
このような場合は、先に動いた方が敗れることが多い。
膠着状態に焦れたのは、趙であった。
孝成王は積極的に攻撃しない廉頗にみきりをつけ、実戦経験のない趙括に替えた。
敵将の交替を秦が見逃すわけがなく、趙軍は大敗し、四十余万もの兵が阬殺された。

『戦国策』(趙策)によれば、馮亭は封禄を辞退し、韓に帰ったことになっているが、
『史記』(白起王翦列伝)によれば、馮亭は趙から華陽君に封じられ、
『漢書』(馮奉世伝)によれば、馮亭は長平の戦いで趙括とともに秦軍と戦って死んだ、
と記されている。
『戦国策』では、馮亭は降りかかる禍を趙に転じた韓の役人でしかないが、
『史記』や『漢書』では、生命をかけて上党を守り抜こうした気骨の士という印象を受ける。
後者の方が、粋な感じがしよう。

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