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中国史人物伝

絶世の美女 夏姫の子 夏氏の乱を起こし、楚の荘王に伐たれた 夏徴舒(春秋 陳)

春秋時代を代表する美女のひとり夏姫は、鄭の穆公の公女として生まれ、

陳の大夫である夏御叔に嫁ぎ、夏徴舒を産んだ。

人妻となり、子を生んだ後もかの女の美貌は衰えなかったらしく、

陳の霊公と通じたばかりか、大夫の孔寧や儀行父とも淫通した。

見かねて霊公を諫める大夫がいたが、孔寧と儀行父に殺されてしまった。

こうなると、かれらを制止する者はもはやいなくなった。

それをよいことに、三人は公然と夏姫への淫行にのめりこんだ。

母と君主が繰り広げたおぞましい光景に、夏徴舒の心中は穏やかではなかったであろう。

中国史人物伝シリーズ

目次

誅 殺

紀元前五九九年五月、夏徴舒は霊公に召された。
――どうせ、ろくな用ではなかろう。
そうおもって、夏徴舒が霊公に謁見すると、
「葵巳(九日)に、なんじの邸へ遊びにゆく」
と、にやけた顔をした霊公から告げられた。
「かしこまりました」
夏徴舒は、無表情でそう返すしかなかった。
ふつうであれば、君主の来駕はこのうえない栄誉であるが、目的が淫靡であるから、迷惑でしかない。
当日、夏徴舒は酒宴の準備をして霊公の来訪を待った。
霊公は、孔寧と儀行父を連れて邸にやってきた。
「ご来駕いただき、この上なく光栄にぞんじます」
門外に迎えでた夏徴舒のあいさつに、霊公はうるさげに一瞥しただけで、邸内へはいっていった。
酒宴がはじまった。
霊公が夏徴舒の貌をじっとみて、
「よくみると、徴舒はなんじに似ておるわ」
と、儀行父に絡みだすと、儀行父も負けじとばかりに、
「おや、君にも似てございますぞ」
と、いい返した。
――ぶっ、無礼な。
夏徴舒は怒りを押し殺すことができず、退席し、家臣になにごとかを命じてから厩へむかった。
宴が終わり、霊公がでてきた。
夏徴舒は矢を弓につがえ、霊公が綏を手にとって車に乗ろうとした。
――いまじゃ。
夏徴舒は、霊公をめがけて矢を射た。
霊公は、地に斃れた。
霊公の従者たちは、われ先にと邸外へ逃げだした。
「かかれっ――」
夏徴舒がそう叫ぶと、夏徴舒の手勢が孔寧と儀行父に襲いかかった。
二人は肝を冷やし、命からがら陳を脱出し、楚へ逃げ込んだ。

国君の席

この混乱で、太子午が晋へ亡命したため、陳に君主が不在となった。
「われは、宣公の曾孫である」
夏徴舒は、そう宣べて自立した。
夏御叔の父が、宣公の子である公子少西(あざなは子夏)であり、
かれの子孫は、その名をとって少西氏、あるいはあざなから夏氏ともよばれる。
夏徴舒は、自分が国君であることを国際的に認定してもらおうと、楚へ使者を出した。
孔寧と儀行父を受け入れていたはずの楚が、夏徴舒を陳の君主に認定してくれた。
「さすがは楚王、話がわかるお方じゃ」
ときの楚王は、英邁の誉れの高い荘王である。
紀元前五九八年夏、
「辰陵で会同をおこなう」
と、楚から通達を受けた。辰陵は、陳の地である。
「ゆかねばなるまい」
夏徴舒は、辰陵へむかった。
この会同に参加したのは、荘王と鄭の襄公であった。
夏徴舒は、陳の君主として無難に会同をこなし、
「楚王もわれを認めてくれたし、これでわれの地位も安泰じゃ」
と、安堵した。
しかし、荘王は甘くなかった。

終 焉

紀元前五九八年冬、楚軍が出師した。荘王の親征である。
――どこを伐つつもりじゃ。
荘王は軍頭を北東へむけ、無防備の陳国内にはいると、
「みだりに持ち場を離れてはならぬ。少西氏を討つだけだ」
と、ふれながら陳都に攻めいった。
――楚王に、たばかられたか。
あるいは、これが夏徴舒の心の声であったかもしれない。
楚の急襲に、陳はなすすべなく、夏徴舒は殺され、栗門で屍体を車裂きの刑に処された。

夏徴舒からすれば、母に姦通した者に制裁を加えただけであったかもしれない。
しかし、誅した相手が国君であったことが、かれの命取りとなった。
貞操か、君臣上下か――。
倫理は、いつの世も人を悩ませる命題のようである。

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