“天下三分の計”の立案者 蒯通(蒯徹)(前漢)(2) 鼎立
「国士無双」
と、称される名将韓信は、漢の別働隊として魏に侵攻して魏王豹を捕え、
代・趙を破り、戦わずして燕を降し、東方の大国である斉を平定しようとした。
斉を取れば、韓信が項羽を背後から制する形になる。
項羽は滎陽で劉邦と睨みあいをつづけ、動けない。
この状況は、韓信にとって有利にはたらこう。
そう感じた蒯通の脳裡に、野心めいた策謀がひらめいた。
中国史人物伝シリーズ
目次
間 使
紀元前二〇四年、韓信はついに斉討伐の兵を挙げた。
ところが、平原津から黄河を渡ろうとするまえに、
「酈食其が斉を説き、降しました」
という報せがはいった。
「さようか」
韓信は、進軍を止めようとした。
漢が斉を降したのであるから、戦う必要はないであろう。ところが、
――これでは韓将軍のためにならない。
と、蒯通はおもい、
「将軍は詔を受けて斉を撃とうとされているのに、漢が勝手に間使(敵情を視察する使者)を発して
斉を降しました。将軍に進軍停止を命じた詔はございましたでしょうか」
と、韓信にたずねた。
「それは、ない」
韓信がそう応えると、蒯通は、
「ならば、どうして行かないんですか」
と、いい、
「一介の士にすぎない酈生が軾(車前の横木)に伏し、三寸の舌をふるって斉の七十余城を降したのに対し、
将軍は数万の兵を率いて趙の五十余城を降したにすぎません。
数年かけて積みあげた功績が、一豎儒の功に及ばないでよいものでしょうか」
と、語気を強めてまくしたて、進撃を勧めた。
この蒯通の説述が、
――わが功に及ぶものはいない。
と、自負する韓信の心をくすぐらないわけがない。
「よしっ、斉を攻める」
韓信は渡河し、無防備の斉に攻め入り、歴下の軍を襲い、首都の臨淄に迫った。
斉王田広は、酈食其を煮殺してから敗走した。
項羽は龍且に兵を与え、斉を救援させた。
韓信はこの軍も大破し、斉を平定した。
真の斉王
「王になられませ」
韓信は、側近からそう進言された。
「漢王は滎陽で項王と戦っておられる。そんなときに王になりたいなどいえようか」
「では、一歩下がって、仮の王ではどうでしょうか」
「仮の王……」
「斉が安定するまで、王になられるのです」
韓信は劉邦のもとへ使者を遣り、仮の斉王になりたいと願いでた。
これに対し、劉邦は張良を遣わして、韓信を真の斉王に立てた。
祝宴で相好をくずす韓信をみて、蒯通は、
――この男にも、野心はあったか。
と、胸をなでおろした。そうでなければ、仕えがいがない。
――項羽も黙ってはいまい。
蒯通がそう推察した通り、項羽が使者として武渉を遣わしてきた。
――これぞ、好機じゃ。
蒯通はさっそく韓信に謁見し、
「項王の使者にお会いなされたとか」
と、話しかけた。
「うむ」
「で、何と」
「項羽めが、いまごろになって味方せよと申してきおったゆえ、もう遅いわっていって追い返したわ」
そういって哄笑した韓信をみて、蒯通は内心舌打ちし、
「臣は、かつて人相観を学んだことがございます」
と、韓信の気をひかせた。
「ほう」
「君のご面相は封侯のものにすぎず、危険で不安ですが、
君の背の相は貴くて申しあげられないほどでございます」
蒯通がそういうと、韓信は神妙な顔つきをして、
「どういうことか」
と、諮うた。蒯通は、
「お人払いを――」
と、願いでた。
説 伏
天下三分の計
韓信が、近臣をさがらせた。
蒯通はまわりに人がいなくなったのをたしかめてから、舌を湿らせ、声をひそめて語りはじめた。
「はじめ天下の士が憂えたのは秦を滅ぼすことだけでしたが、いま劉・項が争い、決着がつきません。
臣が思料いたしますに、天下の賢聖でなければ天下の禍を終息させることができません。
いま、両主の死生はあなたの出方にかかっているのです。
あなたが漢につけば漢が勝ち、楚につけば楚が勝ちます。
臣は心腹を披き、肝胆を砕いて、愚忠のほどを尽くしたいとおもいます。
いまあなたのために計るに、漢楚両方に与し、両存させて天下を三分し、鼎の足が立つようにするのがよく、
そうなればたれもあえて先に動こうとはしないでしょう。
賢聖なあなたが大軍を擁して強斉に拠り、燕・趙を従え、空虚の地に出て漢楚の背後を制し、
民の望みに従って西進し、百姓の生命を全うさせるなら、天下にあなたの命を聴かない者などおりましょうや。
あなたが斉に拠って淮水・泗水流域を保ち、諸侯を徳で懐け、手を拱いて揖譲なされれば、
天下の君王はこぞって斉に参朝いたしましょう。
天が与えるものを取らなければ、かえってその咎(罪)を受け、時が至っても行わなければ、
かえってその殃(わざわい)を受ける、と聞きます。どうかよくお考えいただきますよう」
蒯通はそういって韓信の背を押したが、韓信は、
「漢はわれを厚遇してくれる。利に目が眩んで恩にそむけようか」
と、反発し、うなずかない。
天下の権
――どうしてわかってくれないのか。
蒯通は内心首をかしげながら、韓信に切々と説いた。
「常山王(張耳)と成安君(陳余)が刎頸の交わりを結んでいながら、
たがいに滅ぼしあったのはどうしてですか。
患えは多欲から生じ、人心は測り難いからです。
いまあなたが忠信を尽くそうとしても、あのふたりほど漢王と親しくはなれません。
ゆえに、あなたが漢王が決して自分を危うくしないと決めつけておられるのも、
臣は過信じゃないかとおもいます。
大夫種は滅びかけた越を立て直し、勾践を覇者にする功名を立てながら殺されました。
野禽殫(尽)きて走犬亨られ、敵国破れて謀臣亡ぶ、ということわざもございます。
ゆえに、あなたと漢王の関係は、交友からいえば、張王(耳)と成安君に及ばず、
忠信からいえば、大夫種に及びません。どうかよくお考えいただきますよう。
それに、勇略主を震わせる者は身危うく、功天下を蓋う者は賞されず、とも申します。
いまあなたは賞すことができないくらい大きな功を立て、主を震わせるほどの威名がございます。
それゆえ、楚に帰服しても楚人に信用されず、漢に属いても漢人は恐れ震えましょう。
それなのに、あなたはいったいどこに帰するおつもりですか。
人臣でありながら天下にお名が高くなってしまいましたから、あなたのために危ぶまずにはおられません」
――天下の権は、斉王にある。
と、わかるだけに、蒯通は長広舌をふるった。
――乱世を鎮められるのは、項羽でも劉邦でもなく、韓信である。
蒯通にはわかるこのことが、当の韓信にはわからない。
――漢にそむき、鼎の足が立つように天下を三分してもらいたい。
これは、韓信一個のためというより、天下万民のためである。
そのおもいに突き動かされて、蒯通の弁は熱を帯びた。
しかし、韓信はその熱を冷ますような声で、
「先生、しばらくお休みくだされ。われもよく考えてみましょう」
と、応じ、その場を立ち去った。
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