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中国史人物伝

“天下三分の計”の立案者 蒯通(蒯徹)(秦漢)(1) 後れてきた説士

現在でもよく使われる「三顧の礼」は、物語の『三国志』に由来する。

207年、劉備玄徳は諸葛亮孔明の隠棲先を何度も訪ね、ようやく会うことができた。

このとき27歳の孔明は、20も年上の劉備に、持論である「天下三分の計」を説いた。

劉備は孔明の大局的な戦略に感心し、その献策を容れて実行にうつし、

みずからは天下を三つに分けたそのひとつを占め、皇帝にまでなった。

それゆえ、「天下三分の計」は、孔明の発案と想われがちであるが、

じつは、その400年以上もまえにこれを発想した説客がいた。

蒯通(蒯徹)  (注)

は、項羽と劉邦が天下を争うなか、東方の大国である斉を平定した韓信に

「天下三分の計」を説き、楚や漢と対等な第三勢力になるよう勧めた。

しかし、韓信はこれを聴き容れず、死ぬ間際になって後悔したという。

もし、韓信が蒯通の言に従って天下を三つに分け、そのひとつを占めたならば、

蒯通の名は、もっと高まっていたかもしれない。

注:本名は蒯徹であるが、漢の武帝劉徹と諱が同じであるため、

同義語の”通”を用いた蒯通の名が後世に通っている(忌避)。

中国史人物伝シリーズ

目次

范陽の存亡

弔 賀

蒯通は、范陽(戦国時代の燕国の県)の出身である。
紀元前二〇九年、武信君と号した武臣が、陳勝の命で趙を攻略して十余城を降し、
その勢いで范陽に攻めこんだ。
范陽の吏民は城に立て籠もり、抗戦のかまえをしめした。
――わしの出番じゃな。
蒯通は心中で腕をさすりつつ、范陽の県令である徐公に面会し、
「臣は、范陽の百姓蒯通と申します」
と、名告り、
「公がまさにお亡くなりになろうとされていることをお悔やみ申しあげます」
と、驚かせた。
徐公の容色から、血の気がひいた。
蒯通は、それをみて、
「でも、われを得て生きのびられることをお賀いいたします」
と、ことばをついだ。徐公は首をかしげ、
「悔やむとは」
と、訊いた。
「公は県令となられて十余年、人の父を殺し、人の子を孤児にし、人の足を断ち、人の首に黥したことが
たいへん多うございます。慈父や孝子があえて公の腹に刃を刺そうとしないのは、秦の法を畏れるからです。
いま天下は大いに乱れ、秦の政治は施行されておりません。
それゆえ、慈父や孝子が争って公の腹に刃を刺し、怨みを晴らして功名をなそうとしております。
これが、お悔やみ申し上げるところです」
「うむう、それで、あなたを得て生きのびられるとは」
「武信君は、使いを遣ってわれの安否を案じてくださいます。
われは武信君にお会いして、公を封じて諸侯に取り立てていただくよう申しあげます」
「おお、やってくださるか」
面容に生気をよみがえらせた徐公は再拝し、蒯通のために車馬を用意してくれた。
蒯通は、それに乗って武臣の陣を訪ねた。

武臣を説く

「先生、ご無事でしたか」
そう声をかけながら出迎えてくれた武臣に、蒯通は、
「戦いに勝って地を奪い、城を攻めて降すのは、危険だとおもいます。
臣の計をお用いくだされば、戦わずして地を得、攻めずとも城を降し、檄を飛ばすだけで千里を定められます」と、提案した。
「どういうことですか」
「范陽の県令は、兵を整えて守戦すべきなのに、怯えて死を畏れ、貪欲で富貴を好み、
真っ先に城を挙げて君に降りたいと望んでいます」
「ほう」
「真っ先に降ったのに君がぞんざいにお扱いなされば、辺地の城では、范陽の県令は真っ先に降って殺された、
とみながいい合い、きっと城を固く守りましょう。そうなれば、どこも攻められなくなります」
「そっ、それは、こまる」
「君のために計りますには、黄屋・朱輪車(貴人が乗る車)で范陽の県令をお迎えになられるのが
ようございます。さすれば、辺地の城では、范陽の県令は真っ先に降って富貴になった、とみながいい合い、
きっと坂の上から玉が転がるようにしてわれ先に降ってまいりましょう」
「お教え、うけたまわりました」
武臣は、車百乗、二百騎、諸侯の印で徐公を迎えた。
すると、趙では、これを聞いて降った城が三十を超えた。
武臣は自立して趙王になり、張耳と陳余が武臣を輔けた。
蒯通は張耳や陳余と折り合いが悪かったのか、史書にはかれらと問答をした記事がない。

張耳と陳余

武臣の死後、張耳と陳余がかつての趙の王族である歇を王に立てて、実権を握った。
楚の項梁を破った秦の将軍章邯が、紀元前二〇七年に邯鄲を襲ってきた。
張耳はなすすべがなく、趙王歇とともに鉅鹿に逃げこんだ。
しかし、ほどなく秦の大軍に包囲された。
陳余は援軍を率いて鉅鹿まできたが、秦軍とあまりにも兵力が違いすぎたため、戦うことができなかった。
張耳はいらだち、陳余に秦軍と戦うよう催促したが、陳余は動かなかった。
こうして、刎頸の交わりを結んでいたふたりの友誼に間隙が生じた。
鉅鹿は、落城必至の状況になった。
そこに、項羽が援軍を率いてあらわれ、秦軍を大破し、鉅鹿を救った。
いのちびろいした張耳は、項羽に従って関中にはいった。
秦が滅ぶと、項羽は張耳を常山王(恒山王)に封じ、代王に移した歇に替わって趙を治めさせた。
一方、陳余は南皮侯に封じられ、付近の三県を与えられただけであった。
陳余はこの待遇の違いに怒り、張耳を趙から追放し、歇を再び趙王に立てた。
張耳は旧誼があった漢王劉邦を頼って、漢に逃げこんだ。

韓 信

紀元前二〇五年、張耳が韓信とともに数万の漢兵を率いて趙に攻めこんできた。
韓信は二十万と号する趙軍を相手に背水の陣を布いて戦って大勝し、陳余を戦死させ、趙王歇を捕らえた。
劉邦は、張耳を趙王に任じた。
残るは、燕と斉である。
韓信は趙に仕えていた李左車の意見に従い、戦わずして燕を帰服させた。
そんな韓信に、蒯通は感心しきりであった。
処士であったころの「股くぐり」で知られ、「股夫」と蔑む者もいるが、
――なかなかたいしたご仁じゃないか。
と、感服させられる。
そうではないか。
趙に攻めこむまえ、韓信は漢の将軍として関中を平定し、魏王豹を捕え、代を破るなど戦勝を重ね、
背水の陣以外にも黄河を木罌缻で渡るなど奇抜な戦術も数々披露してきた。
そればかりか、韓信は攻め降した後、平定した地の人心をうまく収攬し、
――楽毅もかくや。
と、おもいたくなるほどの占領行政を布いている。
それなのに、韓信のまわりに謀臣がみあたらない。
韓信自身が卓抜した頭脳を有しており、他者の知恵を必要としないのかもしれない。
だが、蒯通のみるところ、韓信の異能は戦いにのみ発揮され、
こと政治に関しては常識の域にとどまっているように感じられる。
つまり、国家のあるべき姿を提示するような大局的な戦略が欠けているのではないか。
――これなら食い込めそうじゃ。
蒯通は韓信に近づき、客になった。

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