合従策で張儀に対抗した縦横家 犀首(公孫衍)(戦国 魏)
蘇秦と張儀が挙げられよう。
張儀には政敵が多い。そのひとりが、
犀首(公孫衍)
である。
犀首は張儀を嫌い、張儀が秦にくれば魏へゆき、張儀が魏へゆけば秦へ往った。
かれは論客としての才を発揮し、五か国の宰相を兼ねた。
中国史人物伝シリーズ
目次
仕 官
公孫衍は、魏の陰晋の出身である。
公孫というからには、君主の孫なのであろうが、かれがどの君主の孫なのかはわからない。
(たとえば、商鞅も公孫鞅あるいは衛鞅ともよばれ、衛の公孫であった。)
ともかく、名家の出ではなかったためか、公孫衍は生国の魏ではまったく登用されなかった。
そこで、おのれの才を試すため、公孫衍は実力主義の秦へうつった。
そこでかれは頭角をあらわし、紀元前三三三年に大良造(第十六爵)に昇った。
嫌 隙
紀元前三二九年ごろ、張儀という説客が秦にきて、露骨に恵文王に取りいりはじめた。
――王に気にいってもらえれば、それでよい。
張儀にはそうおもっているふしがあり、群臣との収睦をまったく心がけようとしない。
――好かぬやつだ。
多くの朝臣は張儀を快くおもわなかったが、恵文王はそうではなかったらしい。
張儀が恵文王の寵愛を受けるようになると、公孫衍は秦を見限って魏へ奔り、犀首となった。
犀首は魏の将軍の号であるが、いつしか公孫衍の通称になっていた。
よって、公孫衍のことを、以下では犀首で通す。
張儀が秦の宰相に昇り、連衡策を展開するようになると、犀首は合従策でそれに対抗した。
五国の相
張儀を封ず
張儀が秦から魏に乗り込んでくると、魏の恵王は張儀を宰相に任じた。
――まずいことになった。
犀首は一策を講じ、人を遣って韓の公叔にこういわせた。
「張儀はすでに秦と魏を連衡させ、魏が南陽を攻め、秦が三川を攻めれば、韓はきっと亡びよう、
と申しております。魏王が張儀を重んじるのは、韓の地を得たいからです。
このままでは、韓は南陽を奪われましょう。ここはひとつわれにおまかせいただけませんか。
秦と魏は交わりを絶ってしまえば、魏は必ず秦を伐とうとして張儀を追放し、
韓を味方にしてわれを宰相にするでしょう」
公叔が犀首の提案通りにすると、果たして張儀は魏を去った。
しかし、犀首は宰相に任じられなかった。
陳 軫
犀首は落魄し、酒にふけった。
そんなおり、説客の陳軫が犀首に面会を申しいれてきた。
陳軫も、張儀と仲が悪かった。
陳軫は、張儀から警戒された人物である。
かれらは、たがいに仇敵視しあっていた。
それほど陳軫の才がすぐれていたということである。
張儀を嫌う者どうしで馬が合いそうな気がするが、犀首は陳軫を警戒した。
おのれとおなじにおいを感じたからである。
それゆえ、犀首は、
「お引き取りくだされ」
と、謝絶した。しかし、陳軫は、
「お話したいことがありましたゆえ参りましたが、お会いいただけないので、失礼します。
後日のことはわかりません」
と、いい、ゆすりをかけてきた。
――われを無視すれば、どうなるか知りませんよ。
陳軫からそう恫されて、犀首はやむなく会うことにした。
献 策
「公は、どうして酒ばかりお飲みになられますのか」
陳軫にそういわれ、犀首は慍として、
「われは不肖にて、政事に関与できないのです」
と、返した。すると、陳軫は、
「では、もういやだというくらい忙しくしてさしあげましょう」
と、こともなげにいった。
「なにをなされるのか」
「いま、魏王は李従を楚に遣わしております。
でも、公は国内にお留りですから、諸侯に疑念をいだかせることができます。
公は魏王にこう申しあげなさいませ」
「何と申しあげるのか」
「臣は燕王や趙王と古くからつきあいがございます。それゆえ、燕や趙からよく使いがきて、
暇ならくるように、と催促されております。どうかお暇を賜りたく存じます、と」
「お許しが出たら、魏を発てばよいのですか」
「いえ、公は朝廷でこういいふらしなさいませ。
臣は急に燕・趙に使いすることになった。急いで車を用意して、旅支度を整えねば、と」
五国連合軍
犀首が陳軫のことば通りにすると、燕と趙が犀首のもとへ迎えの使者を送り込んできた。
楚の懐王は、これを聞いて、
「李従は寡人(諸侯の一人称)と約束したが、いま、燕と趙が犀首に国事を委ねようとしている。
犀首はきっと寡人にも期待していよう。寡人もそうしたい」
と、いい、李従との約束を反故にして犀首に国事を委ねた。
恵王はこれを知り、
「犀首を用いなかったのは、だめだとおもったからじゃ。ところが、いま、三国が国事を委ねた。
寡人も犀首に国事を委ねよう」
と、考えを改めた。
紀元前三一九年、犀首は魏の宰相に任じられた。
(この年、恵王が亡くなり、子の襄王が魏王になった。)
こうして五か国から国事を委ねられた犀首は、紀元前三一八年に五か国の連合軍を率いて秦を攻めた。
しかし、五か国の足並みがそろわないまま函谷関に到り、秦軍に撃退されてしまった。
後任人事
犀首は敗戦の責任をとり、辞任しようとした。
――じゃが、いま辞めれば、田需が後任となろう。
政敵の出世だけは何とか阻止したいとおもう犀首は、一計を案じ、
「臣が知恵をしぼって尽力し、大王のために地を拡げお名を高めようとしても、田需が内から台なしにして、
大王が田需の言をお聴き容れあそばされます。これでは、臣は何の成果もあげることができません。
田需が他国へ去るなら、臣はとどまりますが、田需を近侍させますなら、臣は去らせていただきます」
と、襄王にいった。襄王は渋面をつくり、
「田需は、寡人の股掌の臣じゃ。なんじにとって都合が悪いからといって追放すれば、
天下にどう弁解すればよいかわからぬし、群臣にも示しがつかない。
そこで、なんじのために田需を遠ざけて、干渉させないようにしよう。
それでも干渉してくるようなら、追放してもかまわん。どうじゃ」
と、提案してきた。
「わかりました」
犀首は田需が政治に容喙できないようにしておいたうえで、斉の王族である田文(孟嘗君)を魏に招き、
宰相の席を譲り、秦に移った。
密 語
秦の恵文王が、紀元前三一一年に亡くなった。
すると、李讎という者が犀首にこう進言してきた。
「甘茂を魏から招き、公孫顕を韓から招き、国内から樗里子を起用なされませ。この三人は、
いずれも張子の讎です。公が三人を用いれば、諸侯は張子が秦で威勢がなくなったとわかるでしょう」
それをきいて、犀首は、
――張儀を追い落とせよう。
と、内心ほくそ笑んだ。
張儀は新しく立った武王ともとより折り合いが悪かったこともあり、翌年秦を去った。
紀元前三〇九年に、武王は樗里子と甘茂を丞相(宰相)に任じた。
犀首は武王から寵愛を受け、
「近く、あなたを丞相にしたいとおもうておる」
と、耳うちされた。
ところが、甘茂に阻止されて、武王を怒らせてしまい、犀首は放逐されてしまった。
自分が引き立てた人物に追い落とされてしまう。
権力争いの難しいところである。
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