名将の子は愚将⁉ 生兵法で身を滅ぼした 趙括(戦国 趙)
ということばがあるように、
親がすぐれていても、子もすぐれているとはかぎらない。
それなのに、
「親がすぐれていれば、その子もすぐれていよう」
と、過大な評価がされることがある。
それが、身を滅ぼすことにもなりかねない。
中国史人物伝シリーズ
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目次
危 惧
趙括は趙の名将趙奢の子で、年少時から兵法を学び、
――軍事を論じてわれにかなう者など、天下におらぬ。
という矜持をいだいた。
趙括は父すら言い負かしたことがあるが、趙奢は決してよいとはいわなかった。
「括のどこがいけないのですか」
趙括の母がそうたずねると、
「戦は、いのちがけでやるもんじゃ。それを、括は軽々しく話しておる。
趙が括を将に起用しなければよいんじゃが、もし括を将にすれば、趙軍はきっと敗れよう」
と、趙奢は懸念を述べた。
あまりの衝撃に、夫がしたこの発言が、かの女の耳朶に残った。
趙括が初陣を踏んだのは、父の死後であった。
膠柱鼓瑟
紀元前二六〇年、秦軍が上党を攻め取った。
上党の民は、趙の長平に逃げこんだ。
これを追って、秦軍が趙に攻めこんできた。
趙の孝成王は廉頗に兵を授け、秦軍を邀え撃たせた。
廉頗は長平へ到ると、堅固な塁壁を築いて防御に徹し、秦軍が疲労するのを待った。
膠着状態が数か月続くと、
「秦が恐れるのは、馬服君趙奢の子趙括が将になることだけだ」
といううわさが、趙で広まった。
「廉頗はいかん。趙括に替えよう」
孝成王はうわさを真に受け、そういいだした。
重臣の藺相如が病を押して参内し、
「王が名声だけで趙括を起用するのは、琴柱を膠で固定して瑟(大琴)を弾くようなものです。
趙括は父の兵書を読んだだけで、変化に対応するすべを知りません」
と、諫めた。
しかし、孝成王は聴き容れず、将の交替を強行した。
なお、融通がきかない、という意で使われる
「膠柱鼓瑟(柱に膠して瑟を鼓す)」
という故事は、このときの藺相如の発言から生まれたものである。
父と子
趙括は将に任じられ、胸の高鳴りをおぼえた。
――秦軍なら、相手に不足はない。
かれの脳裡には、秦軍に勝ち、凱旋するおのれのすがたしか描けなかった。
――国難を救えば、われは父を超えられよう。
趙括は勇んで十全の準備を整え、出陣しようとした。
ところが、母に水を差された。
「括を将にしてはなりません」
と、孝成王に上書したのである。
息子の出世を喜ばない母が、どこにいようか。
孝成王は内心首をかしげつつ、わけを問うた。
「わらわは、括の父に仕えておりました。夫は将でしたが、自ら食べ物や飲み物を給仕した者は数十人もおり、
友は百人以上おりました。大王はじめ王族の方々からいただきましたものは残らず部下や士大夫に与えました。
命を受ければ、家のことはまったく顧みませんでした。それなのに、いま括が将になりますと、
仰ぎみる部下はなく、王から賜った金や帛(絹)は持ち帰って家にしまい、毎日よさそうな田宅を物色し、
購入しております。これを父と比べていかがおぼしめしになられますか。
父と子で心がけがまったく違います。どうか括を遣らないでください」
かの女はそう訴えたものの、
「ご母堂よ、もう申されるな。もう決めたことじゃ」
と、孝成王が聴く耳をもたなかったので、
「王がどうしても括をお遣りになるのでしたら、不首尾であっても、わらわまで罪に問われませんでしょうか」
と、念を押した。
「何も案じられるな」
孝成王がそう応じると、かの女はそれ以上異議を唱えなくなった。
趙括は、意気揚々と出陣した。
長平の戦い
初 陣
――廉将軍は、怯惰じゃ。
戦況を耳にするたびにかねがね歯がゆくおもっていた趙括は、出撃して敵を叩こうと考え、
長平へ到ると、廉頗が定めた軍令をことごとく変更し、軍吏も自分の意見に賛同する者に交替させた。
「敵将が白起でも、われにかなうまい」
趙括はそう豪語して出撃し、秦軍に攻めかかった。
ほどなく秦軍は退却した。
「ふん、口ほどにもない」
趙軍は逃げる兵を追って秦の塁壁に攻めかかったが、抜けなかった。そこへ、
「背後から敵が迫っています」
と、注進を受けた。
「蹴散らせ」
趙括は軍を反転して、秦軍を突き破ろうとしたが、激しい抵抗に遭い、押されぎみになった。
――何とかせねば。
趙括は、頽勢をくつがえそうと策を練った。
しかし、考えれば考えるほど焦りが募り、取り乱してしまった。
ついに、趙軍はふたつに分断された。しかも、糧道を絶たれてしまった。
「やむを得まい」
趙括は、付近に塁壁を築かせて堅く守り、援軍を待った。
挫 折
「なにゆえ、こうなったのか……」
趙括は、頭をかかえた。
かれが脳裡で編みだした策は完全なものであった。だが、敵に通用しなかった。
敵は、必ずしもこちらの出方を手を拱いて待ち構えているわけでない。
敵方にも策があり、こちらの出方に対しておもいもよらぬ動きをみせることがある。
実戦経験のない趙括はそこまで想到できず、想定外の動きをした敵に対応できなかった。
要するに、かれは敵をよく視ることができなかったのである。
敗 亡
趙括には最後までわからなかったが、敵将は白起であった。
趙が将を趙括に替えると聞き、秦は白起をひそかに長平に遣り、兵を指揮させていたのである。
白起は当時最強の武将といってよく、戦えば必ず勝ち、戦場には大量の血が流れ、多数の首が飛んだ。
そのような名将が率いる秦軍ばかりか、趙軍は飢えとも戦わなければならなくなった。
士卒が、趙括のいうことをきかなくなってきた。
――われは、父に遠く及ばなんだ……。
趙奢が士卒に慕われていたことを想えば、趙括は自嘲するしかなかった。
援軍が来ないなか、飢えに苦しむ日が四十日を超えた。
陣中では、兵どうしが殺し合い、その肉を喰らうようになった。
「出撃しよう」
趙括は肚を決め、四つの隊を作り、数回にわたって秦軍に攻撃をかけたものの、脱出できなかった。
「かくなるうえは――」
趙括は精鋭を率いてみずから戦ったものの、秦兵が放った矢が中たり、絶命した。
戦 後
趙軍は敗れ、秦に投降したが、みな阬殺された。
長平の戦い
と、呼ばれるこの戦いで、趙は四十万超もの人命を喪い、壮年の者がほとんどいなくなった。
翌年、趙の首都である邯鄲が一年以上秦軍に包囲されたが、魏や楚の援軍を得て落城を免れた。
趙括の母は、誅されなかった。
孝成王が、前言を守ったのである。
紙上談兵
趙括が妄想の中で自分を見失った結果が、これであった。
――われにかなう者などおらぬ。
と、うぬぼれて戦闘の場裡に飛び込んだものの、
想定通りに事が運ばなくなると、理論ばかりが先行して地に足がつかなくなり、うろたえるしかなかった。
父の著書に拘っているかぎり、父を超えられない。
才気煥発なかれが、このことに気づけなかったのであろうか。
父の趙奢に名将の誉れが高かっただけに、趙括は愚将のそしりを免れることができず、
理論ばかりで実際に役に立たない意で使われる
「紙上談兵(紙上に兵を談ず)」
という故事も生まれ、嘲笑の的になった。
ものごとを悉知するには困難が伴うが、得た知識を活用するのはさらに難しい。
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