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中国史人物伝

孔明に泣いて斬られた 馬謖(三国 蜀)(1) 孔明の寵愛

「泣いて馬謖を斬る」

『三国志』を知らなくても、この語を耳にしたことがある方は、寡なくなかろう。

馬謖(あざなは幼常)(190-228)

は、才名が高く、蜀漢の丞相である諸葛亮孔明から目をかけられた。

次代の国家を担う人材と目されたかれが、

どうして処刑の憂き目に遭ってしまったのであろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

馬氏の五常

馬謖は、荊州襄陽郡宜城県の名家の五人兄弟の末子であった。
五人とも秀才の令名があり、みなあざなに「常」があったことから、
「馬氏の五常」
と、郷里でもてはやされた。なかでも、
「白眉最も良し」
と、評された馬良(あざなは季常)は、馬謖の三歳上の兄であった。
馬良は劉備に仕えて重用されたが、章武二年(二二二年)に、夷陵の戦いで殺された。

孔明の寵愛

馬謖も劉備に仕えて荊州従事(属僚)となった。
その後、劉備に従って蜀に入り、緜竹県令、成都県令、越巂郡太守を歴任した。
――才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず(『三国志』)。
と、評されるように、馬謖は非凡な才能をもち、軍略を論じることを好み、
丞相である諸葛亮から非常に高く評価された。
ところが、劉備は馬謖をそれほど高く買ってはいなかったらしく、臨終に際し、
「馬謖は口だけじゃ。大事を任せてはならぬ」
と、諸葛亮に釘をさしたほどである。
それでも、馬謖への諸葛亮の評価が下がることはなかった。
劉備の没後、諸葛亮は馬謖を参軍(幕僚)とし、昼夜問わず常に側近くに置いて談論を交わした。
欠点などなさそうな万能の宰相におもわれた諸葛亮でも、弱点があった。
それは、軍事の経験に乏しかったことである。
皇帝となった劉禅は十七歳とまだ若く、諸将を従わせるほどの威を持ち合わせていない。
――魏との戦いでは、みずからが帥将となり、将兵に号令を下すほかない。
そう肚を決めた諸葛亮にとって、兵法に通じていた馬謖は兵法の師であった。
――丞相は、魏を伐ち、漢朝を再興せん、とお意いじゃ。
馬謖は諸葛亮の大志を看抜き、魏を討ち滅ぼす方略を提言し、諸葛亮の欠缺を補うように知恵をつけた。

心を攻める

劉備が亡くなると、南中の諸郡が叛乱をおこした。
諸葛亮は服喪中に兵を動かすことをせず、馬謖と綿密に南中征伐の策略を練った。
建興三年(二二五年)春、諸葛亮は喪を除き、南征の兵を揚げた。
その軍に数十里のところまで付き従った馬謖は、別れ際に、
「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」
と、諸葛亮に助言した。
諸葛亮は上策を実行し、孟獲を捕らえては釈放することを幾度となく繰り返した。
こうして同年秋に、諸葛亮はついに孟獲を心服させ、南中を平定した。
この軍事の成功は、諸葛亮に自信をつけさせたばかりか、蜀漢に大きな利をもたらした。
軍需物資に事欠かなくなり、国が豊かになったのである。
この成果に満足した諸葛亮は、軍を整備し、軍事演習をおこなった。

先鋒の将

建興六年(二二八年)春、国力の充実を感じた諸葛亮は、ついに北伐の兵を挙げた。
魏は蜀に対する備えをしておらず、まさに敵の虚を衝いたものとなった。
――魏を倒し、天下を手中に収める。
その緒戦で先鋒の将を務めることは、大変な名誉であった。
「魏延将軍がよろしゅう存じます」
「いやいや、呉懿将軍こそふさわしかろう」
軍議で先鋒の将にふさわしい人物として名が挙がったのは、
いずれも経験豊富で多大な功績を積み重ねてきた歴戦の名将ばかりであった。
しかし、諸葛亮の存念は違っていた。
「馬謖よ」
諸葛亮は馬謖にやわらかい表情をむけ、
「なんじに先鋒を務めてもらう。急ぎ街亭へむかい、道すじを押さえよ」
と、命じた。
街亭は長安のある関中から隴右(隴山の西側の地域)へむかう途中にあり、
南北を山で挟まれ道幅が狭いという要害の地である。
満座はいちように驚きの色をみせた。
それはそうであろう。
馬謖は諸葛亮の参謀に過ぎず、野戦の経験が皆無であった。
それが国家の命運を懸けた戦いの先鋒の将に抜擢されたわけである。
――大事な緒戦に、のるかそるかの懸けをなされるとは。
そう不安にかられた者も少なくなかったであろう。
諸葛亮にすれば、当然の人事であったのかもしれない。
かれの作戦をもっともよく理解していたのは、馬謖を措いて他にはなかったのである。

布 陣

異例というべき大抜擢に、もっとも驚いたのは、他ならぬ馬謖その人であろう。
――丞相は、それほどまでにわれのことを――。
馬謖は勇躍し、精鋭を率いて要害である街亭へむかった。
街亭へ到ると、馬謖は何をおもったか、
「山をのぼれ」
と、全軍に命じた。
「丞相のご命令とは違いますが」
いぶかしげにそう異見を述べたのは、副将の王平である。
馬謖はとたんにけわしい表情をつくり、
「なんじは、兵法を知らぬのか」
と、すごみ、
「戦陣にあっては、将は王命といえども聞かぬものだ」
というなり、兵を急かせて山上に陣を構えた。
けっして諸葛亮の策戦を侮ったわけではない。
馬謖も、現地へゆくまでは街亭の道すじを押さえるのがよいとおもっていた。
ところが、現地を視て、
――山頂から駆け下った勢いで敵を蹴散らせば、勝てる。
と、閃き、山上に陣取った方がよい、と考えを改めたのである。
馬謖は、おのれの兵法に自信があった。
何しろ、諸葛亮に兵法を教えたのは自分であるという自負がある。
――おのれの判断が、丞相の判断に劣るはずがない。
そう信じていたがゆえに、馬謖はおのれの裁量で采配をふりたくなったのである。
一方、王平は麾下の千人の兵を率い、山のふもとを流れる川沿いの小径に砦を築いた。

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