愛すべき楽天家 蘇軾(蘇東坡)(北宋)(6) 筆禍
蘇軾が地方へ転出し、民情を知り、実績を積みあげていたころ、
神宗皇帝の絶大な信頼を背に、新法と総称される改革を断行した王安石が、
熙寧九年(1076年)に宰相を辞し、翌年に致仕(隠退)した。
その後、神宗が親政をおこない、新法を継続した。
王安石の後を継いで新法党を率いた呂恵卿や章惇らには理念がなく、
新法党内部で権力を争い、旧法党への弾圧を強めていった。
中国史人物伝シリーズ
蘇軾(蘇東坡)(1) 大志
蘇軾(蘇東坡)(2) 科挙
蘇軾(蘇東坡)(3) 出世と訣れ
蘇軾(蘇東坡)(4) 王安石の新法
目次
烏台詩案
蘇軾は、熙寧十年(一〇七七年)に知徐州軍州事へ、さらに元豊二年(一〇七九年)には知湖州軍州事へと、
地方官を歴任した。
ところが、湖州に赴任して間もなく、
――詩が、朝政を誹謗している。
という理由で御史台(監察機関)の役人に逮捕され、首都開封へ連行の上、投獄された。
このころ、王安石は隠居し、神宗が親政をおこない、それを新法党が支えていた。
新法党には理念がなく、権力保持のため、政策に反対する旧法党への弾圧を強めた。
蘇軾は、その見せしめにされたことになる。
蘇軾は、獄中で厳しい取り調べを受けた。
二十年も前に作った詩の詩句の意味が追求され、蘇軾は一字一句について弁明した。
――政治を批判するつもりで詠んだわけではない。
蘇軾は、非難の対象となった詩の解釈を供述書に著した。
この供述書は、この事件の裁判の記録とともに、『烏台詩案』という書物にまとめられた。
そのため、この事件も『烏台詩案』とよばれるようになった。
――おそらく、われは助からんじゃろう。
獄中で、かれは幾度となく死を覚悟した。
しかし、神宗は蘇軾を憐れみ、黄州団練副使に任じた。
これにより、蘇軾は百日にも及ぶ拘束からようやく解放された。
ただし、団練使は虚官(名目のみの官職)にすぎず、任務などない。要するに、黄州への追放である。
蘇轍も、兄に連坐して筠州の監酒官(酒の専売の監督官)に左遷された。
美食の宝庫
元豊三年(一〇八〇年)正月一日、四十五歳の蘇軾は長子の蘇邁だけを連れて都を発ち、
二月一日に長江北岸の黄州に着いた。
黄州は長江が曲流するところで、長江が城壁をめぐって流れていた。
「魚がうまそうじゃ」
そう詠った蘇軾は、近くの山に竹の美林が茂っているのをみて、
「筍の香ばしい匂いが漂ってくるようじゃ」
と、上機嫌であった。
しかも、好物の豚肉が安くて旨い。なにしろ、
「無肉令人痩、無竹令人俗」
と、述べているほど豚肉と筍に目がない蘇軾は、
東坡肉
を考案したとされるほどの美食家でもあった。
そして、かれは友と連れ立って出かけては、ともに酒を酌み交わす日々を楽しんだ。
蘇軾は、下戸ながら酒を愛した。
のちに恵州へ流謫されたとき、かれはつぎのような詩を詠んだ。
われは、五合(約〇・三四リットル)ほどしか酒を吞めない。
それでも、他人が酒を吞むのをみるのは楽しい。
天下でわれほど酒を吞めない者はいない。
けれども、天下でわれほど酒を吞むことを好きな人はいない。
かれは、みなで吞んで打ち解け合うのを楽しんだのである。
臨皐亭
五月の終わりには、蘇軾の家族が黄州にやってきた。
臨皐亭
蘇軾は新居をそう名づけ、家族とともに移り住んだ。
皐は、水際の意である。
王閏之(妻、三十三歳)
蘇邁(長子、二十二歳)
蘇迨(次子、十一歳)
蘇過(三子、九歳)
王朝雲(侍妾、二十歳)
蘇邁の妻
蘇簞(蘇邁の子、三歳)
これが当時のかれの家族構成であったが、僕人も連れてきたであろうから、十人以上が同居したであろう。
それを虚官の扶持で養おうというのであるから、生活に困苦したであろうことは想像に難くはない。
東 坡
元豊四年(一〇八一年)、友人の馬夢得が、蘇軾の苦しい生活を見かねて、
もと兵営跡の荒れ地数十畝(一畝は、約五百四十四平方メートル)を州府から借りてきてくれた。
「東坡」
蘇軾は、この地をそう名づけた。
かれが敬慕していた白居易(あざなは楽天)が忠州刺史(知事)であったときに、
好きな花を植えた東むきの斜面(東坡)にあやかったものである。
蘇軾は東坡に稲を植えて、耕作と収穫を楽しんだ。
かれはまた、友人と連れ立って遊んだりもしたが、役人に監視され軟禁状態にあった。
それでも、かれは朝廷への復帰をあきらめたわけではない。
――われは、罪を恐れて災禍を避けただけじゃ。
けれども、ここで死ねば官界への復帰がかなわない。
復帰するには、生き抜くしかない。
しかし、官職が虚官であるため、することがない。
俸給は寡少で、体調もすぐれないが、時間は有り余るほどあった。
その時間を、かれは酒、詞、宗教、書画に費やし、それらに耽溺していった。
また、深く仏典を読んだりもした。
おのれを苦しめる端緒となった詩文に対しては、傷痕が残った。
それでも、かれは詩を詠むことをやめなかった。
不遇が、かれの詩をさらに高めていった。
蘇東坡誕生
蘇軾は、黄州にきてから経済的にも困阨し、自ら鋤を執って荒地を開墾した。
かれは不遇を嘆き恨まず、逆境を恬淡として受け容れた。
――世俗に煩わされない超俗の達人。
弟の蘇轍は兄をそう印象づけようとするが、かれ自身は、
「もっとも俗なところに身を置きながら、内面の自由を追究する姿勢こそが望ましい」
と、述べている。
ものごとの本質を見極めるには、外部からとらわれない目でみる必要があろう。
官界に身を置いていると、官界の本当のすがたはわからない。
しかし、都から遠く離れると、それまで気にもとめなかったことに気づくことがあった。
元豊五年(一〇八二年)二月、蘇軾は東坡のかたわらに雪堂を建て、
東坡居士(東坡の処士)
と、はじめて号した。
蘇軾が東坡をみずからの号としたのは、白居易にあやかろうとしてのことであろう。
『易経』繋辞上伝にある
――楽天知命、故不憂(懸命に自分を磨き、天命を知ることができれば、憂えることはない)
からあざな(楽天)を取った白居易の生涯は、苦労が絶えなかった。
蘇軾はそれを想い、運命を信じ、いまの不遇に悩むことなく乗り越えていこうと心に決めたのであろうか。
「蘇東坡」
このころから、かれはそう自署するようになった。
蘇東坡の誕生である。
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