Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//流転の才媛 蔡文姫(漢魏)(1) 波乱

中国史人物伝

流転の才媛 蔡文姫(漢魏)(1) 波乱

三国志に登場する女人で、真っ先に挙がるのはたれであろうか。

董卓と呂布を翻弄した  貂蝉
映画で視聴者を魅了した 小喬("デブ助"もいたような)
曹操・曹丕父子が狙った 甄氏(明帝曹叡の生母)

いずれも三国志で人気の美女である。

貂蝉は中国四大美女に挙げられるほどの美貌の持ち主であるが、架空の人物であるらしい。

魅力あふれるキャラクターに富む三国志には、数多の女人が活躍した。

その中で、正史に記述のある実在した才媛
蔡琰(あざなは文姫)
ほど波乱に富んだ人生を送った女人はいないのではなかろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

文姫は本名ではない⁉

蔡琰(蔡文姫)は兗州の陳留郡圉県出身で、父は儒者として名高い蔡邕である。
かの女の名は琰、あざなは昭姫である。
ところが、正史である『後漢書』列女伝には、
「あざなは文姫」
と、記される。
これは、偏諱が行なわれたためである。
偏諱とは、二字名のうち一字を忌避することをいう。
司馬炎が晋王朝を開くと、父の司馬昭に帝号を追贈したため、「昭」を含む名は避諱された。
『後漢書』を編纂した范曄は、東晋の次の宋(劉宋)の人である。
范曄が晋の皇帝の諱を避ける必要はないのであるが、
かれが晋代に編まれたかの女の伝記に取材したため、
文姫というあざながそのまま『後漢書』に転記され、後世、人口に膾炙することになった。
それゆえ、かの女が自身を蔡文姫と名告ったことも呼ばれたこともないであろうが、
以下、蔡文姫で通す。
ところで、男尊女卑の封建時代にあって、女人の名が後世に伝えられることは珍しい。
漢の高祖(劉邦)の皇后であった呂后(呂雉)のような権力者の名が知られる程度で、
士大夫層では『漢書』を完成させた班昭などわずかしかない。
深窓の麗人が歴史の表舞台に出ることが極めて稀であったからであろう。
蔡文姫の名(琰)が後世に伝わったのは、班昭と同様、類まれな文才によるのであろう。

琴を弁じる

蔡文姫は博学で弁舌にすぐれ、音律にも精通していた。
父の蔡邕も音律に精通し、琴がうまかった。
かの女が幼い頃、蔡邕が夜に琴を弾いていた。
その最中に、絃が切れてしまった。
「第二絃が切れました」
すかさず、蔡文姫がそういった。
たしかに、かの女の指摘通り、切れたのは琴の二番目の絃であった。
「たまたまじゃろう」
そうつぶやいた蔡邕は、わざと他の絃を切り、
「どの絃が切れたかわかるか」
と、女を試してみた。すると、蔡文姫は、
「第四絃が切れました」
と、応えた。
これには、蔡邕も舌を巻くしかなかったであろう。

拉 致

訣 れ

古代中国では、女人は十五歳から二十歳までに結婚するのが通例であった。
蔡文姫はその歳になると、河東郡の衛仲道に嫁いだ。
しかし、子を設けないうちに夫に先立たれ、実家へ帰った。
その頃、蔡邕は献帝を擁立して専横を極めた董卓に厚遇された。
ところが、初平三年(一九二年)に董卓が王允に誅殺されると、蔡邕は逮捕され、獄死した。
さらに、王允が董卓の部将であった李傕と郭汜らに殺されると、天下の混迷が深まった。

鉛色の天

興平二年(一九五年)、李傕と郭汜の反目に嫌気がした献帝は、長安を脱出しようとした。
献帝を護衛する兵のなかに、匈奴人がいた。
かれらは、一行が逃げまどう最中に、突如として漢兵を襲い、掠奪をはじめた。
この混乱で蔡文姫は匈奴兵に捕えられ、連れ去られてしまった。
匈奴兵は馬の横に漢兵の首を懸け、後ろに掠奪した女人を乗せた。
野は黄ばみ、枯れ葉が乾いている。
振り返ると、漢の地は遥かかなたに遠ざかってしまった。
匈奴兵は掠奪した女人を一か所に集めず、休むことなく進み続けた。
母娘、姉妹どうしであっても、互いに話すことすら許されなかった。
女人たちは、みなすっかり憔悴し切っていた。
飲食を摂ることすらままならず、からだに力が入らない。
匈奴人は蝮(まむし)や蛇のように凶暴で、すぐに傲り昂る。
少しでもかれらの機嫌を損ねようものなら、
「このくたばり損ないめが」
と、罵倒されてしまう。それが嫌で我慢していると、
「おまえらを生かしてはおかんぞ」
と、脅される。
「おれの妻になれ」
匈奴兵からいきなりそう迫られた女人が、
「胡人の妻になるくらいなら、死んだほうがましだ」
と、いい返すと、匈奴兵はかの女を棒や杖で打擲した。
このようなことが何日も続くと、志も心も砕け、悲嘆にくれるしかなかった。
夜明けには号泣し、夜更けには悲しみに耐えかねてむせび泣く毎日が続いた。
――われにも矜持はある。罵詈雑言を浴びせられつづけて、どうして生命を惜しもうか。
蔡文姫は自殺を試みたもののできず、生きようとしてもなにもいいことがなかった。
――わたしに何の罪があるというのか……。
蔡文姫は、鉛色の天を恨めしげに仰いだ。

匈奴の劉氏

――この世の果てにきてしまったのではないか。
そうおもってしまうほど、荒涼とした風景が視界に広がっていた。
幾重にも連なる山が、故郷への道を遮っている。
砂塵を巻きあげた疾風が衣を揺らせ、耳に音を立てる。
眼下には、無数の穹廬(折りたたみテント)が建ちならんでいた。
ここが、匈奴の本拠地であるらしい。
女人たちが、一か所に集められた。
――これからどんな目に遭うのであろう。
ここまで連行された挙句に殺されるのであろうか。それとも、胡人の慰み者にされるのか。
蔡文姫は、いいようのない不安に苛まれた。
女人たちが一人ずつ匈奴兵に呼ばれ、それぞれの穹廬へ連れていかれてゆく。
「次の者――」
蔡文姫は順番が来ると、匈奴兵の後について、奥のひときわ大きい穹廬に連れていかれた。
「ようこそ」
かの女にそう声をかけてきたのは、精悍な顔つきの男であった。
「われは、左賢王の豹じゃ。これから、そなたはわれに仕えてもらう」
――漢語を話せるのか。
豹のことばを聞いて、蔡文姫はわずかに安心した。左賢王とは、匈奴の皇太子である。
むろん、正妻ではなく、妾(側室)として仕えるのである。
蔡文姫の夫になった豹は、のちに、
「劉豹」
と、名告る。
かれが漢王室とおなじ劉姓を称したのは、匈奴の単于(君主)と漢王室が婚姻関係を結んでいたことによる。
かれが劉姓を称したのは、蜀漢が魏に滅ぼされてからであろう。
蜀漢の滅亡は、二六三年のことである。
豹が蔡文姫を妾にしたのが十歳代の半ばとすると、このときかれは八十歳を優に超えている。
非常に長寿であったことは間違いない。
後に、劉豹の子である劉淵が蜀漢の後継者と称して皇帝を名告り、漢王朝を復興させた。
この国が魏を継いだ晋王朝を滅ぼすのであるから、先のことは本当にわからない。
話が先走り過ぎた。

朔北の凍風

朔北は極寒で、頰をさす凍風に生きた心地がしなかった。
身を切るような寒さに震え、食は喉を通らない。
冬は霜や雪が多く、春や夏には北から砂塵を乗せた風が吹きつけ、夏でも寒い。
風や霜が身に染み入り、身も心も震えおののく。
だが、身を覆い包む寒気よりも、胸裡のほうが冷たかった。
左賢王の夫人となった蔡文姫に、ぞんざいな態度をとる者などいない。
それでも、頼れる身寄りもない上に、風俗も心情も異なる異国では身の置きどころもない。
――なにゆえこんな所まで連行されて、胡人のなぐさみものにされければならないのか。
蔡文姫はおのれの運命を恨み、天に問うてみた。
むろん、応えが返ってくるはずがなく、雲と霞がむなしく立ち込めるのみであった。
日暮れの風が、哀しげに吹いている。
――この悲しさを、たれに伝えればよいのか。
夜になると、眉をひそめながら月に向かって琴をなでる。
しかし、悲しみに耐えかねて嗚咽した。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧