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中国史人物伝

愛すべき楽天家 蘇軾(蘇東坡)(北宋)(5) 超然

蘇軾(蘇東坡)(4) はこちら >>

長く地方官を歴任した王安石は、地方の実状を知り、政治の矛盾や不合理について考えた。

――貧しい民の生活を豊かにすれば、税収は増える。

そう想到したかれは、神宗の信頼を背に、勢力家らの既得権益に切り込む

”身を切る改革”を断行し、厳しい人事で知識人の言論を封殺しようとした。

王安石の改革を支持する新法党に対し、蘇軾は遠慮せず自由に批判の声を挙げていた。

神宗は若くて率直に意見する蘇軾を気に入り、要職に就けようとしたが、

王安石に反対され、起用を見送った。

王安石にすれば、改革に反対し続ける蘇軾は煙たかったろう。

権力者に忌み嫌われた蘇軾は、しだいに厳しい立場に追い込まれていった。

中国史人物伝シリーズ

蘇軾(蘇東坡)(1) 大志
蘇軾(蘇東坡)(2) 科挙
蘇軾(蘇東坡)(3) 出世と訣れ

目次

上神宗皇帝書

熙寧四年(一〇七一年)、蘇軾は権開封府推官(裁判員)に任じられた。
その仕事は、相当な激務であった。
――余計なことに首を突っ込むな。
という王安石の意向によるものであろう。
蘇軾は精確かつ敏速に決断し、その声望はますます高まった。
「新法は不便じゃ」
蘇軾は口ぐせのようにそういい、意見書を提出して新法を激越に批判し、
――国家人民のためには、生命をかけても新法の問題点を指摘しなければならぬ。
と、意を決し、激務の合間を縫って七千言を超える
「上神宗皇帝書」
をしたため、改革の内容よりも、進め方が性急であることを痛烈に批判した。
改革を批判することは、皇帝の意思に逆らうことになる。
蘇軾は、文字通り死を賭して上書した。
――理にかなっておれば、陛下はお取りあげになられるであろう。
その信念が、蘇軾を突き動かしたのである。ところが、
「蘇軾はさきに親の喪で帰郷したとき、舟で商売をしておりました」
と、侍御史(監察・弾劾官)の謝景温に弾劾されてしまった。むろん、王安石の差し金である。
御史台(官吏を監察・弾劾する組織)の取り調べを受けた蘇軾は、
争いごとに巻き込まれることを嫌い、地方への転出を願い出た。

赴 任

熙寧四年(一〇七一年)六月、蘇軾は杭州通判 (副知事)に任じられた。
蘇軾は都を発ち、蘇轍がいる陳州に立ち寄り、兄弟そろって頴州にいる欧陽脩を訪ねた。
欧陽脩は蘇軾が杭州通判に任じられたのと同じ月に官を辞し、頴州に隠退していた。
三人は西湖に船を浮かべ、語りあった。
これが、蘇軾と蘇轍が欧陽脩に会った最後となった。
つぎの年に、欧陽脩が亡くなったからである。
師のもとを辞し、弟と別れた蘇軾は、十一月に杭州に到った。
このとき、かれは三十六歳。
妻の王閏之、王弗が生んだ十三歳の長男蘇邁、王閏之が生んだ二歳の二男蘇迨らを伴っての赴任であった。
年の暮れであるというのに、獄に繋がれている人が多かった。
唐代には、「縦遣」といい、年末年始に罪人を一時的に帰宅させていたらしい。
――せめて年末年始だけでも家で過ごさせてやれないものか。
蘇軾は、胸裡でそうつぶやいた。
蘇軾は除夜の日も残業して囚人の書類に目を通したが、
年末になって借金が返せなかったとか、食事に困って窃盗したような者が多かった。
民の困窮の実態を知り、蘇軾は涙を流した。
そして、かれらのことを知るにつけ、
――薄禄に恋々としているおのれも同じじゃないか。
と、反省した。

諷 刺

蘇軾は、温暖多雨な杭州での暮らしに慣れてくると、
仕事をこなしながら周辺の名勝や州府をめぐり、数々の詩を詠んだ。
中には新法を諷刺する詩も少なくなかった。
蘇軾の舌鋒は、地方へ移り鋭さを増したようである。
「疲れ果てた人民が鞭打たれても何も感じなくなった」
「若者が青苗銭(貸付金)で博打をして、無一文になる」
青苗法(政府が農民に貸付する制度)は新法の中でも成果を挙げたとされるが、
貧農が借りた青苗銭は借金返済のため商人の手に渡ってしまい、農民の手もとには何も残らない。
「保甲法(傭兵の廃止と民兵化の促進)なんか何の役にも立たん」
「公使銭(地方交付金)が削られたせいで役所のふところが寒くなったもうた」
人に会い、話し込むうちに、つい憤懣をぶつけてしまい、
「朝廷には立派な人材がそろっているのに、税が重く人民の苦しみはなくならない」
と、聞いている人がおもわず耳を塞ぎたくなるような皮肉をいった。

超然台

熙寧七年(一〇七四年)、三十九歳の蘇軾は任期を終え、権知密州軍州事(密州知事代理)に異動した。
蘇軾は、妻子と王朝雲という十二歳の侍妾を連れて密州へむかった。
南国の杭州から来た一行にとって、密州の冬は寒かった。
しかも、密州の環境は杭州よりはるかに劣悪であった。
交通は不便で、痩せ地であったうえに蝗害や旱害による凶作が続き、
盗賊が多発し、決すべき裁判が滞っており、食事も粗末であった。
しかし、かれは密州で政務をとることが少しも苦ではなかったらしい。
熙寧八年(一〇七五年)、蘇軾は高殿を造り、蘇轍がそれを
「超然台」
と、名づけた。
十二月に、蘇軾は「超然台記」を書いた。
その書き出しからしてかれらしい。
――およそ物はみな観るべき有り。
どんなものでも観るべきところがある。観るべきところがあるなら、必ず楽しめる。
どんなものでも楽しめるのであるから、われはどこへ行っても楽しい。
どうしてそんなに楽しいかといえば、
――蓋し物の外に游べばなり。
ものごとに拘泥せずに、世俗から遊離しているからである。
密州での暮らしを楽しんだかれは、外貌が丸くなり、白髪が黒くなったという。そのわけを、
――密州の素朴な風俗が、自分に適っていたからであろう。
と、蘇軾は自己分析している。
かれは、荘子のようにおのれの価値観を確立し、世俗から超然としていたのであろうか。
ものごとにこだわらない蘇軾は、みずから置かれた環境にすぐに順応した。
――困窮のあまり追い詰められて盗賊となった者を厳しく取り締まるよりも、
人民の生活の基盤を確保する政治をすべきである。
そう主張した蘇軾は、民情に接し、時勢を憂え、さまざまな詩で新法を批判し、政策の誤謬を皮肉った。

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