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中国史人物伝

東海に奏でた琴の音 鄒忌(騶忌)(戦国 斉)(1) 琴師、宰相になる

釣り人のことを、太公望ということがある。

太公望は、稀代の名軍師である。

かれは魚は釣れなかったものの、周の文王を輔けて天下を釣りあげた。

周の武王は商(殷)王朝を滅ぼすと、太公望をである斉に封じた。

以後七百年以上にわたり、かれの子孫は斉の君主として東方の大国を治めた。

その最盛期であった桓公の時に、陳の公子完が斉に亡命してきた。

かれの子孫は田氏(陳氏)と名告り、代々家勢を拡げ、

紀元前五世紀には君主をしのぐほどの権勢となった。

民心も得た田氏は、太公望の子孫に取って代わり、斉の君主となった。

紀元前四世紀半ばから後半にかけて、威王・宣王という英主があらわれ、

戦国時代における斉の最盛期を現出させた。

威王には、楚の荘王と同じような”鳴かず飛ばず”の逸話があり、大胆な擢用と貶降を敢行した。

なかでも最大の抜擢は、鄒忌(騶忌)を宰相に任じたことである。

威王の琴の師であったかれは、

音曲の道にことよせて政道の要諦を説き、人臣の最高位を射とめると、

その美貌に似つかぬ隠微な手つきで政敵を追い落としながら政争を勝ち抜き、

権勢を保持しつづけた。

中国史人物伝シリーズ

目次

琴音調って天下治まる

琴の名手として威王に謁見した鄒忌は、威王が琴を弾いているのを耳にすると、
「うまいですなあ、琴をお弾きになることが」
と、話しかけた。威王は勃然として色をなし、琴を横にやって剣把に手をかけながら、
「あなたは外貌をみただけで、内実まではわかっておらぬ。なにゆえうまいとわかるんじゃ」
と、叱りつけた。
「君を示す大弦の音が濁って春の温かさを感じ、臣を示す小弦の音が鋭くて澄んでおります。
弦を深く爪弾き、弦をゆるやかに離すのは、政令が時宜を得ていることを示しております。
琴の音が調和し、大小の弦が助けあい、それぞれが曲折しながらも害し合わないのは、
四季が順調に移ろっていることを示しております。ですから、うまいと申しました」
鄒忌が落ち着いてそう応えると、威王は剣から手を離し、
「みごとなもんじゃ。音楽を語るのが」
と、口調をやわらげていった。ところが、鄒忌が、
「音楽だけではございません。国を治め民を安んずることも、みなその中にございます」
と、話すと、威王はまたも勃然とし、
「音楽なんかで国を治め民を安んずることがわかろうか」
と、怒声を浴びせた。ところが、鄒忌がまったく恐れ入ることなく、
「琴音調って天下治まる、と申します。国を治め民を安んずるのに、音楽にまさるものはございません」
と、述べると、威王は、
「あいわかった」
と、鄒忌の意見を容れた。
鄒忌は威王に謁見してからわずか三か月で宰相に任じられると、翌年には下邳に封じられ、成侯と号した。
琴がうまいという特技だけで、諸侯という領主貴族になれたのは、時代がなせるわざであろう。

救援拒絶

威王三年(紀元前三五四年)、趙の首都邯鄲が魏軍に攻め囲まれた。
趙の使者が、斉に救援を要請してきた。
「趙を救うべきか否か」
威王は大臣たちに諮問した。
「救わないほうがようございます」
鄒忌は、そう意見を述べた。
当時の魏軍は、中華で最強といってよい。
邯鄲を陥とすと、つぎの標的を斉にされかねない。
勁強な軍にみずから敵対して、恨みを買う必要はないではないか。
国をあずかる宰相としては、妥当な意見であるようにおもえる。ところが、
「趙を救わなければ、不利になります」
と、異見をはさんだ者があった。声の主は、段干綸(段干朋)であった。
「なにゆえか」
「魏が邯鄲を兼併すれば、斉にどんな利がございましょうや」
段干綸の意見は、気宇の大きい威王の心をつかんだ。
威王は田忌を将とする援軍を、趙にさしむけた。
臨淄から邯鄲へは、ほぼまっすぐ西へむかえばよい。
田忌は、軍頭を西にむけた。ところが、兵法学者の孫臏から、
「絡まった糸を解くときには、無理に引っ張らないほうがようございます。
戦いをやめさせようとするなら、その戦いに加わってはなりません。
要所を衝き、虚を突いて、形勢を崩せば、糸はおのずから解けていくものです」
と、進言された。
田忌は孫臏の意見を容れ、進軍のむきを南西へ変えさせた。魏を攻めたのである。
魏の主力は邯鄲を包囲しており、寡兵が留守していただけであった。
――斉師、あらわる。
の報を聞き、魏軍はあわてて自国へ引き返した。
斉軍は魏軍を桂陵で待ち構え、敵が強行軍で疲弊していたところを攻めて、大破した。
この作戦は、のちに、
囲魏救趙の計
と、呼ばれる。
田忌は凱帰すると、官民の賞賛を受けた。
一方、趙の危急を救おうとせず、見殺しにしようとした鄒忌は、群臣から非難の目をむけられた。
――田忌め。
以来、鄒忌は田忌を嫉視するようになった。

一発屋vs名門

鄒忌と田忌の反目が長く続いたのは、単なる個人的な感情のもつれによるものではないとおもわれる。
威王の治世において、斉の朝廷には、
鄒忌のように威王に擢用され、その寵愛だけをよりどころとした恩顧系の重臣と
田忌ら王族を中心とした血統を誇る譜代重臣の争いがあった、
というのが実情に近いのではなかろうか。
一発屋の鄒忌と名門出の田忌が、主導権をめぐって争いを繰り広げていた
という構図をおもい浮かべればよいであろう。

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