愛すべき楽天家 蘇軾(蘇東坡)(北宋)(2) 科挙
公務員試験である科挙は、隋代に導入され、唐代に確立し、宋代で盛んになった。
科挙は、解試(一次試験)、省試(二次試験)、殿試(三次試験)の三段階からなる。
宋代の初めには、地元で受験する解試には全国で合わせて数万人が挑戦し、
首都の汴京(東京開封府)で実施される省試に進めるのは約一万人であったといわれる。
省試の倍率は、数十倍から、厳しいときは百倍を超えることもあったという。
皇帝みずからが査問する殿試は、合格者の順位を決めることを目的とする試験であり、
全員が合格するのであるが、その順位は、役人になってからの出世を左右した。
殿試で成績第一位の者を、"状元"といい、
すべての試験を一位で合格した者は、"三元"と呼ばれる。
麻雀の"大三元"は、これに由来する。
中国史人物伝シリーズ
目次
科 挙
上 京
至和元年(一〇五四年)、十九歳になった蘇軾は、三歳年下の王弗を妻に娶った。
その年に、蜀で騒動があり、朝廷は張方正を成都に遣り、騒動を鎮静させた。
つぎの年、蘇洵は成都へゆき、張方正を訪れて論文をみせた。
論文を評価した張方正は、蘇洵を欧陽脩に推薦するとともに、蘇洵に上京を勧めた。
――それなら、息子二人も連れて都で科挙を受けさせよう。
蘇洵は晩学の人で、四十歳近くなってから都の開封に遊学して数年を過ごし、
制科(臨時の任用試験)を受けたものの落第し、父の死に伴って帰郷した。
蘇洵は科挙合格をめざして学問に励む息子たちをみて、果たせなかった夢をかれらに託したのである。
嘉祐元年(一〇五六年)の春に、蘇洵は蘇軾と蘇轍を連れて眉山を発った。
蘇洵は汴京(開封)に到ると欧陽脩を訪ね、新たに作成した論文をみせた。
――われが提唱する文学の改革と一緒じゃ。
欧陽脩は論文を激賞し、蘇洵を朝廷に推挙した。
賞罰忠厚之至論
科挙は、解試(一次試験)、省試(二次試験)、殿試(三次試験)の三段階からなる。
嘉祐元年(一〇五六年)の秋に、蘇軾と蘇轍は解試である開封府試に合格し、省試の受験資格を得た。
つぎの年、二人は全国から集まった受験生とともに、宮中で省試を受験した。
「刑賞は忠厚の至り(為政者が刑罰や恩賞を施す際には、まごころの限りを尽くすべきである)」
についてどう考えるか。
これが、最終諮問の課題であった。
それに対し、蘇軾が提出した論文が、
「賞罰忠厚之至論」
であった。そこには、
「罰すべきかどうか疑わしい罪は罰しない。賞すべきかどうか悩ましい功績には賞を授ける。
無辜の民を誅すくらいなら、罪に抵てないほうがよい」
などの内容が記されてあった。
すり替え
この試験では、欧陽脩が知貢挙(試験委員長)を務めた。
当時の科挙は、太学体と呼ばれる文体が合格答案の主流であった。
しかし、欧陽脩は内容を重視し、太学体で書かれた答案を評価しない方針を決め、
同様の考えをいだいていた梅堯臣を試験官に誘った。
公平な選抜をおこなうため、試験が終わると、答案用紙から受験生の氏名を書いた部分を切り取り(封彌)、
答案をすべて写しとり(謄録)、写し間違いがないかを確認してから審査に回されたため、
試験官には答案の作成者がわからなかった。
梅堯臣は蘇軾の論文を読み、
「これが最もすぐれております」
と、欧陽脩に手渡した。
欧陽脩もそうおもったが、
――もしかすると、これは曽鞏が書いたものではなかろうか。
ともおもった。曽鞏は、欧陽脩の弟子である。
――弟子を首席にすれば、身びいきと批判されよう。
迷いに迷った挙句、欧陽脩は次席の者と順位を入れ替えた。
発 表
発表には、欧陽脩さえも驚かされた。
首席が曽鞏で、蘇軾は次席であった。
――いらぬ気をまわすのではなかった。
欧陽脩は内心苦笑したであろう。
封彌のおかげで、蘇軾は首席合格を逃してしまった。
この試験で合格したのは、わずか三人のみであった。もうひとりは、蘇轍であった。
蘇氏兄弟は殿試に進み、合格者八百七十七人のひとりとなった。
ともに席次は上位ではなかったものの、蘇軾は二十二歳、蘇轍は十九歳で進士となった。
難関試験である科挙の突破は至難を窮め、
「五十歳で進士になるのはまだ若い方」
と、いわれるほどであるから、異例の快挙であった。
人 傑
合格発表後、蘇氏兄弟は知貢挙らにお礼参りをしてまわった。
蘇軾は、論文の出来を欧陽脩に激賞された。
欧陽脩は、最初に蘇軾の論文を評価してくれたのが梅堯臣であると誨え、
韓琦、富弼ら名士にも引き合わせてくれた。
蘇軾は、かつて寺子屋で聞いた人傑四人のうち三人に会うことができたのである。
「惜しむらくは、君が范仲淹に会えなかったことじゃ」
欧陽脩、韓琦、富弼の三人は、口をそろえてそういった。
范仲淹は、五年前に亡くなっていたのである。
蘇氏兄弟は、恩人である欧陽脩と梅堯臣に師の礼をとった。
服 喪
科挙に及第し、任官の沙汰を待つ蘇氏兄弟を待ち受けていたのは、悲報であった。
眉山の自宅で朗報を待ちわびていた母の程氏が亡くなったのである。
蘇洵父子は、帰郷して喪に服した。
嘉祐四年(一〇五九年)冬、蘇洵父子は足かけ三年に及んだ喪を除き、都へむかった。
道中、蘇軾は詩のなかでつぎのように述べている。
富貴がもとから定まっているわけではないのであれば、栄枯盛衰はわが身しだいであろう。
それならば、功名心にはやるのが当然であるから、都へむかうのである。
都で富を築くつもりはない。
天下に不足するものを補うのである。
人生は意気を重んじる。
出処進退をためらってはならない。
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