Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//乱世の”いぶし銀” 3人の 召平(秦漢)

中国史人物伝

乱世の”いぶし銀” 3人の 召平(秦漢)

秦末から漢初にかけて、召平という名の人物が複数いた。

いずれも英傑であったとまではいえないが、

戦国時代の説客を彷彿させるような説述で英雄の重い腰を挙げさせたり、

英雄が破滅への途へむかいそうなところを救ったりするなど

地味ながら才知をキラリと光らせて”いぶし銀”の活躍をした。

中国史人物伝シリーズ

目次

広陵の人

召平(邵平)は、広陵の人である。
紀元前二〇八年、陳勝が叛乱を起こしたと聞くと、かれは広陵を奪い取って陳勝に呼応しようとした。
ただし、かれは広陵を乗っ取って支配するつもりはなく、広陵をみやげに陳勝の配下になろうしたのである。
しかし、占拠できないでいるうちに、
――陳勝が敗走し、秦軍がやってくる。
といううわさを仄聞した。
召平はあわてて広陵を脱け出し、南へ逃げた。途中で、
「呉で楚の項燕将軍の子と名告る者が挙兵した」
という話を耳にした。
――それならば。
召平の脳裡に、あることがひらめいた。
召平は長江を渡って呉へゆき、陳勝の使者であると告げて項梁に面会し、陳勝の命と詐り、
「なんじを楚の上柱国(宰相)に任じる」
と、厳かにいい、
「江東はもう平定したので、疾く兵を率いて秦を伐つように」
と、命じた。
項梁は、八千人の兵を率いて長江を渡った。
項梁の軍は道々で兵力を増し、陳勝を敗走させた章邯率いる秦軍と戦うことになる。

秦の東陵侯

東陵の瓜

召平は、秦の時代に東陵侯であった。
「侯」は、秦の級爵の最上級に位置する。
東陵侯とは、東陵を領地にもつ領主貴族である。
しかし、秦は官僚制度を採用し、封建制を採らなかったため、俸禄は領地からではなくて官から支給された。
つまり、東陵を領有する実質がない虚封であり、名のみの貴族であった。
したがって、かれの暮らしぶりは、貴族からはほど遠く、むしろ庶民に近かったであろう。
秦が滅亡すると、召平は無位無官の庶民となり、貧窮し、長安城の東に瓜を植えた。
かれが栽培した瓜はとてもおいしかったため、
「東陵の瓜」
と、呼ばれるようになった。
漢の丞相(首相)である蕭何は、東陵の瓜の話を聞きつけ、召平を客としてもてなした。

猜疑を避ける

紀元前一九六年、劉邦は韓信が誅されたと聞くと、蕭何を相国に任じ、邑五千戸を増封し、
兵卒五百人と都尉(警護隊長)一人を護衛につけた。
諸侯がみな蕭何を慶賀するなか、召平ひとりだけが悔やみを述べた。
「禍はここからはじまりましょう。主上が野外に身をさらしておられるのに、君は内を守って矢石の危険を被らなかった。それなのに主上が君に加増し、護衛をおつけになられたのは、さきごろ淮陰侯(韓信)が謀叛を起こしたので、君を疑っておられるのです。護衛をつけて君を衛るのは、君を寵遇しているわけではありません。
どうか君は加増を辞退して、家にある私財をことごとく投げ出して軍の助けとされますように」
――なるほどな。
召平のことばを聞いて、蕭何は内心唸った。
秦の貴族であったのに、いまや貧窮するまでに転落した人物の発言である。
挫折を知っただけに、かれは客観的にものごとを観ることができるのであろう。
――どうやら、舞いあがっているような場合ではないらしい。
蕭何はそう思い直し、召平のことば通りにすると、劉邦は喜んだ。

同一性

書籍の注釈によれば、広陵の人である召平が秦の東陵侯であると記載しているものがある。
司馬遼太郎先生著作の『項羽と劉邦』も、両者を同一人物にしている。
しかし、両者が同一人物であるとすると、つじつまがあわない事柄があるような気がする。
ここは素直に同時期に同姓同名の人物がいたと考えるのが妥当ではなかろうか。
さらにややこしいことに、漢初に召平という人物がほかにもいるのである。
この召平を、さきのふたりと同一人物とするのは、さすがに無理があろう。
しかし、歴史は、ともすれば不合理に想われることが事実であったりする。
三人の召平が同一人物ではないかと想像してみるのもまた一興なのかもしれない。

斉の宰相

召平は、斉の宰相である。
その役目は、中央政府から斉に派遣された目付け役であるといえよう。
劉邦の死後、天下を運営した呂太后は、呂氏一族を重用し、皇族である劉氏は忍従を強いられていた。
紀元前一八〇年、呂太后が亡くなると、斉王劉襄(劉邦の孫)が弟の劉章の勧めに乗り
呂氏討滅の兵を挙げようと図り、中尉(王宮の護衛官)の魏勃らとともにその段取りを話し合っていた。
召平はそのことを察知すると、すぐに兵を発し、王宮を衛り、挙兵を妨げた。
魏勃は召平のもとへゆき、
「王は兵を出そうとなさっておりますが、漢の虎符(割符)があるわけではありません。
あなたが王宮を囲んでおられるのは、もっともなことです。
どうかあなたに代わりわれが衛兵を率いて王を護衛させていただきとうぞんじます」
と、申し出ると、召平は信用し、魏勃を将とし、みずからは宰相府へ移った。
ところが、魏勃は将となると、兵を率いて宰相府を包囲した。
――たばかられたか。
召平は諦観し、
「ああ、行うべき時に行わなければ、かえって禍乱を受ける、
と、道家の言にあったのは、このことであったか――」
と、慨嘆し、自殺した。
その後、劉襄は兵を挙げた。
この挙兵の顛末については、以下の記事にて

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧