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中国史人物伝

二たび捕われた勇士 解揚(春秋 晋)鳥居強右衛門とのシンクロ

世間の耳目を集めるのは非日常的な事件であり、

通常通りになされたことは記事にならない。

これは、古今通して同じであろう。

日ごろ武勇を誇る者が敵の捕虜になれば、大事件になるのであろうか。

中国史人物伝シリーズ

仁者か愚者か? 宋の襄公(1) (2)

勇士解揚

目次

勇 士

解揚は晋の霍邑の出身で、あざなは子虎という(『史記』鄭世家)。
晋では勇士として知られる人物であった。

かれの名が初めて史書にあらわれるのは、紀元前六一九年である。
解揚は君命を受け、衛から攻め取った匡と戚を衛に返還した。

そのころ、盟主国である晋は、南方の大国である楚と覇権を争っていた。
解揚は数々の戦争に従軍して活躍していたと想われるが、戦場での活躍の記載はない。

北林の戦い

紀元前六〇八年、晋の宰相である趙盾が、楚の盟下にある鄭を攻めた。
楚の荘王は、蔿賈に鄭の救援を命じた。
鄭の首都である新鄭の東北に、北林という地がある。
そこで、趙盾率いる晋軍は、楚軍の奇襲を受けた。
兵数では、晋軍の方が圧倒していた。
しかし、木が生い茂る密林帯で、兵車を展開しにくいとあっては、
大軍であることの有利さを活かせず、晋軍は蔿賈の采配に翻弄され、逃げまどった。
混乱の最中、解揚は踏みとどまり、楚軍の追撃を食い止めて味方の逃走を助けたが、
自身は逃げきれず、捕らえられてしまった。
鄭は、晋楚の間で向背をくり返していた。
そのため、解揚はほどなく釈放され、帰国することができたと想われる。

沈黙十四年

その後も解揚は幾度となく戦争に従軍していたとおもわれるが、活躍の記載はない。
紀元前五九七年に、荘王は邲の戦いで晋軍に大勝し、覇者となった。
この大戦にも解揚は参加していたと想われるが、何をしていたのかわからない。
ところが、十四年ぶりに解揚の名がふたたび史書にあらわれる。

荘王 宋を囲む

紀元前五九五年に、荘王は宋に侵攻し、都城を包囲した。
荘王の意志は強く、年があらたまっても包囲を解く気配はなかった。

欺 罔

宋からの使者が晋に来て、危急を告げた。
晋と宋の紐帯は固い。
「宋を救おう」
晋の景公が腰を浮かそうとすると、伯宗が制止した。
「天は楚を援けており、まだ争うことはできませぬ。
晋が強いといっても、天意に違うことなどできましょうや。
どんな美玉でも瑕はつきものですから、国君が一時の恥を忍ぶのは、天の道理にかなってございます。
君にはしばらくお待ちいただきますよう」
この進言を容れて、景公は宋への救援を思いとどまった。
「宋を見棄てるのか」
「宋に使者を送り、晋の援軍がくると告げさせて安心させましょう」
詭弁である。
そのようなことをすれば、失った覇権がますます遠ざかるばかりであろう。しかし、
――いまの晋の国力では、楚に勝つことができない。
と、納得した景公は伯宗の進言に従い、群臣から使者を募ることにした。

二たび捕虜に

晋には、胆力にすぐれた者が数多いた。
それでも、宋への使者に名乗りを挙げる者がいなかった。
それはそうであろう。
城内に入るには、楚軍の重厚な包囲網をくぐり抜けなければならないのである。
そこへ乗り込むのは、自殺行為ではないか。
そのようななか、
「われがまいりましょう」
と、名乗り出た大夫があらわれた。
解揚である。
――あのときの汚名を雪ぐのは、いまを措いて他にあるまい。
かれは、そう意気込んでいた。
あのときとは、北林の戦いで捕虜になったことである。
――使命が難しいほど、達成すれば恥辱を雪ぐことができるはず。
解揚は、意気揚々と晋を発った。
ところが、隣国の鄭でまたしても捕らえられてしまった。

君命を果たす

解揚は、鄭人により宋を包囲している楚軍の陣に連行され、引き渡されてしまった。
「晋の援軍は来ない、といってくれないか」
荘王は解揚を手厚く賂し、鄭重にそう頼んだ。
解揚は首を縦にふらなかったが、三たび頼まれ、やむなく、
「かしこまりました」
と、承諾してしまった。
荘王は、解揚を樓車(偵察車)に乗せ、
「さあ、やってくれ」
と、命じた。
「晋の全軍が出陣し、もうすぐ到着いたします」
解揚がそう城内に呼ばわると、城内から歓声が起こった。
解揚は、安堵の表情を浮かべた。
対照的に、苦虫を噛み潰したような貌をしたのが、荘王であった。

赦 免

「不穀(諸侯の一人称)の頼みを聴きいれておきながら違うことをいったのは、どういうわけか。
不穀に信義がないのではなく、なんじが信義を棄てたのだ。さあ、速やかに刑につけ」
荘王は近臣に命じて、解揚にそう告げさせた。
それに対し、解揚は、毅然として、
「君主が命令を発するのを義といい、臣下が命令を受けるのを信といい、
君主が発した命令を臣下が実行するのを利といいます。
計謀が利を失わず、社稷を衛るのが、民の主です。
君主は臣下に二心をいだかせてはならず、臣下は二君から命令を受けてはならない。
臣はそう聞いてございます。
君が臣に贈賄なさるのは、命をご存知ないからでございます。
命令を受けて国を出たからには、死んでも君命を棄てるつもりなどございません。
どうして物でつられましょうや。
臣が君に承諾いたしましたのは、君命を果たそうとしてのことにございます。
死んで君命を果たせるのであれば、それこそ臣の幸いにございます。
寡君には信義を守る臣がございます。
君命を果たして死ぬのであれば、これ以上何を求めましょうか」
と、言い返した。
――忠臣よな。
感心した荘王は、解揚を釈放し、帰国させた。

和 睦

その後も、荘王は宋都の包囲を解かなかった。
城内の食糧は底を尽き、子を交換して喰らいあい、骸骨を薪代わりに用いて煮炊きしたほどであった。
勇気というものは、追い込まれてはじめて出せるものなのであろうか。
八か月にも及ぶ楚軍の城攻めから宋を救ったのは、宰相である華元の命がけの行為であった。
かれは大胆にも夜陰に紛れて楚軍の陣に忍び込むと、
荘王の弟である子反の牀(寝台)へ潜り込み、剣を突き刺して脅した。
引き揚げを模索していた荘王は子反の進言に従い、宋と和睦して引き揚げた。
これが二十六か国を併呑し、三千里の地を開いたともいわれる荘王の最後の外征となった。

鳥居強右衛門とのシンクロ

勇士として知られた解揚が、自慢の武勇ではなく、捕虜になったことで後世に名を遺したのは、
たいへん不本意であったろう。
とはいえ、解揚に胆力があったことは、荘王との問答から窺い知ることができる。
たれも引き受けたがらない危険な任務を引き受け、生命を懸けて遂行したのは、
勇士の面目躍如といったところであろうか。

ところで、解揚が荘王に許された件を読むと、いつも日本史のある場面を思い起こしてしまう。
この件については、いろんな方が語っているため、あえて触れないでおこう。

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