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中国史人物伝

筹策多く威名あれども循行なし ローマ兵と戦った(⁉)名将 陳湯(前漢)(3) 西域

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紀元前36年、陳湯は西匈奴の郅支単于を誅し、西域に威名をとどろかせた。

このとき、陳湯が戦った郅支単于の軍のなかにローマ兵がいたとする説は、

かれらが魚鱗のような陣を布いたという記載が『漢書』陳湯伝にあり、

これがローマの亀甲隊形に相当する、としている。

兵が魚の鱗のように集まって陣を形成し、敵軍の一点を集中的に攻撃し、

突破しようとする作戦で用いられる魚鱗の陣は、

日本の戦国時代の合戦でもみられ、1572年の三方ヶ原の戦いで武田信玄が採用したといわれる。

また、古代中国では、紀元前707年の繻葛の戦いにおいて、

鄭軍が「魚麗の陣」をなした記事もあり(『春秋左氏伝』桓公五年)、

魚鱗の陣を亀甲隊形に結びつけるのは話が飛躍しているように感じるが、どうであろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

凱 帰

甘延寿と陳湯は、つぎのように上疏してから凱旋の途についた。
「天下の大義は混合して一となすべし、と臣はきいております。
大義は、むかしは唐虞(堯と舜)に、いまは強漢にございます。
匈奴の呼韓邪単于がすでに北藩と称し、郅支単于のみが叛逆して罪に伏さず、
強漢をもってしても大夏(現在のアフガニスタン北部)の西方を臣従させることができませんでした。
郅支単于は民を苦しめ、その大悪が天に通じてございます。
臣延寿および臣湯は義兵をひきいてきゃつに天誅をくだしましたが、陛下の神霊のおかげによりまして、
陰陽の気が並び応じ、天の気が精明になり、敵に勝ち、郅支単于および名王以下の首を斬りました。
その頭を槁街(長安城内にある諸夷の来朝者の家敷町。公開処刑もここで行った。)にある
蛮夷邸のところに縣けて万里に示し、
強漢を犯せば、遠方であろうと必ず誅することを明らかになさるべきと存じます」
司隷校尉(警視総監)は、甘延寿と陳湯の申し出を容れぬ旨の書翰を途上で通告し、吏士を捕らえて検問した。
甘延寿と陳湯が制詔を矯めいつわって出撃したことが問題にされたようである。
「臣は吏士とともに郅支単于を誅し、幸いにも禽滅することができて、万里を凱旋してきたのですから、
使者を迎えに出して労うのが筋ではないかと存じます。
いま、司隷校尉が吏士を捕らえて検問しているのは、郅支単于のために讎を報いているようなものです」
陳湯がそう上疏して異議を申し立てたところ、
元帝はただちに吏士を釈放させ、県や道(蛮夷のいる県)に酒食をたずさえさせて凱帰する軍を迎えさせた。

論 功

甘延寿と陳湯が長安に凱旋してから、論功の裁定がなかなかなされなかった。
ようやく次のような詔が下された。
「匈奴の郅支単于は礼義にそむき、漢の使者や吏士をとどめて殺し、たいへん道理にそむいていた。
朕はどうしてこれを忘れようぞ。優游とかまえて征伐しなんだのは、
師衆(大軍)を動員して将帥を労することをはばかったからであり、それゆえ隠忍してひかえておったのだ。
いま、甘延寿と陳湯が好機をみさだめて時の利に乗じて城郭諸国とともにほしいままに軍を発し、
制詔を矯めいつわってこれを征伐し、天地宗廟の神霊の加護によって郅支単于を誅討してその首を斬り、
閼氏、貴人、名王以下千余人を斬り捕えた。
義を逾越し、法を犯したとはいえ、国内に一夫の使役すら煩わせず、
府庫のものを使わず、敵の糧食を軍用にあて、功を万里の外に立て、威は百蛮を震わせ、名を四海に顕した。
国のために残賊を除き、兵革(戦争)のもとが消え、辺境は平安を得た。
それなのにかれらはなお死亡の患えを免れていないが、
その罪は法令違反にあり、朕はこれをはなはだ閔れんでいる。
それ甘延寿と陳湯の罪を赦し、治むるなかれ」
そして、甘延寿は義成侯に封ぜられ、陳湯は爵関内侯を賜い、それぞれ食邑三百戸、加えて黄金百斤を賜うた。

虚偽告発

成帝の御代になると、陳湯は射声校尉(射撃隊の指揮官)となったが、上書して、
「康居王の侍子は、王子ではございません」
と、告発した。
それを受けて役人が調査をおこなったところ、実の王子であった。
陳湯は獄に下され、死罪相当とされた。
谷吉の子で太中大夫(皇帝の顧問官)の谷永が上疏してとりなしてくれ、陳湯は獄から出ることができた。
ただし、爵を奪われ、士伍(一兵卒)とされた。

召 見

数年後、陳湯は成帝のお召しを受けた。
陳湯は郅支単于を征討した際に寒病になり、両臂を曲げたり伸ばしたりすることができなかった。
そこで、参内の際、拝礼をしなくてもよいとの詔が下された。
陳湯は、成帝に拝謁すると、
「これをいかが取り計らえばよかろうか」
と、諮われ、書翰が示された。西域都護の段会宗からの上奏文であった。
「烏孫の兵に攻め囲まれました。願わくは城郭諸国の兵や敦煌の兵を徴発して救っていただきたく存じます」
陳湯は目を通してから、
「将相九卿はみな賢明なかたがたで、諸事に通暁されておられます。
小臣は老いさらばえて、大事をはかるに足りませぬ」
と、辞謝した。
「国家の急なのじゃ。遠慮は要らぬ」
「臣がおもいまするに、これは憂える必要がないと存じます」
「なにゆえそういえるのか」
「胡兵は五人で漢兵一人に当ります。それは、武器が鈍くて弓に威力がないからです。
いまは漢の技術を取り入れているやにきいておりますが、それでも三人で漢兵一人に当りましょう。
また、兵法には、攻め手の兵力が守り手の倍あってはじめて勝負になる、とあります。
いま段会宗を攻め囲んでいる烏孫の兵数は、段会宗に勝つには足りませぬゆえ、
陛下におかれましてはご心配におよびません。
それに一日で進めるのは軽装備で五十里、重装備で三十里にすぎません。
いま段会宗は城郭諸国の兵および敦煌の兵を徴発したいと申しておりますが、
何日も経ってからやってくるのでは、いわゆる報讎の兵は救急の用に非ず、というものです」
「まことに包囲は解かれるのであろうか。だとしたら、いつごろ解かれるのか」
烏孫は烏合の衆で長く攻め続けることができず、故事から鑑みるに数日程度であろう。
陳湯はそうおもっていたので、
「すでに解かれておりましょう」
と、奉答し、指を折りながら、
「五日もしないうちに、吉報に接しましょう」
と、つづけた。はたして四日経つと軍書が届き、そこには、
「烏合の包囲が解けました」
と、記されていた。
陳湯の慧眼に感嘆した大将軍王鳳の上奏により、陳湯は従事中郎(参謀副官)となった。
陳湯は法令に明るく、進言の多くが容れられ、大将軍府における諸事の一切が陳湯の意見により決められた。

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