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HOME//ブログ//中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(8) 白堤

中国史人物伝

中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(8) 白堤

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唐王朝は安史の乱で弱体化した国家を立て直すため、有能な人材を登用した。

それが、科挙を及第した進士であった。

かれらは高官に取り立てられると、唐を衰亡から立て直していった。

その活躍をみて、国はさらに進士を輩出すべく科挙の合格者を増やしていった。

ところが、これまで唐王朝を運営してきた門閥貴族が、この政策に反発した。

進士のほうも出世の妨げとなる門閥貴族に対抗した。

これが四十年にわたり廟堂を二分する

「牛李の党争」

と、呼ばれる党争に発展することになる。

その端緒は、白居易が制挙に及第してから二年後の元和三年(808年)の制挙にあった。

その対策(答案)で牛僧孺、李宗閔らが、国の政策を厳しく批判した。

時の宰相は、門閥出の李吉甫であった。

試験官も進士であったこともあり、李吉甫に忖度せず、かれらを及第させた。

牛僧孺らは仕官できたものの李吉甫に睨まれて地方に飛ばされ、長く不遇を託った。

しかし、李吉甫が亡くなると、牛僧孺らは中央に召還され、重用されるようになった。

それを李吉甫の子李徳裕が苦々しくみており、牛僧孺らを追い落とす機を狙っていた。

その渦中へ、白居易は入ってゆくことになる。

有名詩人の白居易を引き入れようとする両派の動きに、白居易はどう応じるのか。

中国史人物伝シリーズ

白居易(1) 寒門
白居易(2) 科挙
白居易(3) 仕官
白居易(4) 長恨歌
白居易(5) 順風
白居易(6) 貶謫

目次

持 家

朝廷の様子は、以前とはまったく異なっていた。
この年(八二〇年)の正月に憲宗が急死し、穆宗が帝位に即いていた。
穆宗は、憲宗時代に抑圧されていた進士を重用しはじめていた。
その恩恵が、白居易にもおよんだようである。
尚書省刑部の司門員外郎(従六品上)に任ぜられた白居易は、
十二月二十八日に礼部の主客郎中(従五品上)知制誥に昇進し、
先に祠部郎中知制誥になっていた元稹とともに天子の命令を起草することになった。
長慶元年(八二一年)二月、白居易は新昌里に自宅を購入した。
新昌里は、かつて妻の楊氏と新婚生活を過ごした思い出深い地であった。
五十歳になって、白居易はようやく長い借家暮らしを脱し、自分の家を所有することができたのである。
これは、都長安に腰を落ち着けるという白居易の覚悟のあらわれでもあった。

政権中枢

この月、元稹が中書舎人(正五品上)に任じられた。
中書舎人は詔勅の起草責任者で、将来の宰相候補といってよい。
「これは、めでたい」
白居易は、親友の出世をわがことのように喜んだ。
このころ、弟の白行簡が門下省の左拾遺(従八品上)に任ぜられ、白居易にとって慶事が相次いだ。
白居易は冬に朝散大夫(従五品下の雅名)を授けられ、宮中で高官の象徴たる緋衣を着る栄誉を与えられた。
さらに、上柱国(最上等の勲官)の勲位を授けられ、十月十九日には中書舎人知制誥に任じられた。
たいへんな名誉であるのに、白居易は、
——困ったことになった。
と、素直に喜ぶことができなかった。
要職についたことで、政争に巻き込まれるのを危ぶんだからである。

蝸角之争

長慶二年(八二二年)二月十九日に、元愼が同中書門下平章事に任ぜられて宰相になり、
年来の政治改革を断行しようと意気込んだ。
――これで、困窮する民を救えよう。
白居易は、親友がおこなう政治に期待をかけた。
一方で穆宗は、翌月に元稹と反目し合っていた裴度も宰相に据えた。
はたして、元稹と裴度は権柄をめぐり争った。
両者と親しい白居易は、このことにとても心を痛めた。そこに、
「元稹が、裴度に刺客を放った」
という奏上がなされた。
調査の結果、これが訛伝であったことが判明したものの、六月に二人とも宰相を罷免されてしまった。

失 望

元稹が宰相を罷免され、同州刺史に出されてしまうと、白居易は政務へのはり合いをなくしてしまった。
穆宗は荒縦(荒乱で放縦)で、執政は政争にかまけ、人民の困苦にむきあおうとしない。
白居易はみかねて進言したものの、聴きいれられなかった。
――このままでは、政争に巻き込まれてしまおう。
と、恐れた白居易は、すっかり政治への熱意を失ってしまい、
――いっそのこと、野に出て浩然の気を養はん。
とのおもいから、将来の宰相候補でもある要職をなげうって、地方への転任を願い出た。
それが許されて、七月十四日に白居易は杭州刺史(従三品)に任じられた。

杭州刺史

長安から杭州へ行くには、洛陽を経て黄河から運河を利用して南下するのであるが、
このときは東方で反乱があったため、運河を通過できなかった。
そこで、白居易は七年前に江州へむかったときとおなじ経路を使うことにした。
すなわち、商山路を南へ越え、武関を通り、襄陽に出て、そこから船に乗り漢水を下って長江に出て東行した。
その途中、かつて四年の時を過ごした江州に到ると、
白居易は湓浦の渡津に船を泊めて、一夜を廬山の草堂で過ごし、
自分で掘った池、そして池に植えた蓮に花が咲いているのを眺め、感慨にふけった。
さらに長江を下り、潤州から大運河に入って南下し、蘇州を経て、十月一日に白居易は杭州に着いた。

形 勝

杭州の景勝地といえば、仲秋の大潮の時期に、海水が銭塘江を逆流する大潮
というのは、当時もいまも変わらない。
白居易は赴任してから半年ほどですでに杭州の景色に魅了されたらしく、「餘杭形勝」と題した詩のはじめに、
「餘杭(杭州)の形勝 四方に無し(天下にならぶものがない)」
と、絶賛したほどであった。
とりわけ、かれは県城が臨む銭塘湖(西湖)の景色を愛で、
「湖上 春来たれば 画図に似たり」(「春題湖上」)
と、称賛するほどであった。

灌漑事業

杭州は、白居易が赴任する少し前に旱魃に見舞われ、さらに翌長慶三年(八二三年)の夏にも旱害に遭った。
白居易は、刺史の職務として雨乞いの祈りをおこなったものの、
――祭祀では人民の憂いを除けまい。
ともおもい、灌漑用の水を確保すべく、
「孤山と湖岸を堰堤で結ぼう」
と、提案した。孤山は、銭塘湖のなかに浮かぶ小さな島である。
「そんなことをしたら、井戸水が使えなくなるのではないか」
と、反対する意見が挙がったが、白居易は、
「農耕のためになさねばならぬ」
と、説得にあたった。
そのようなさなかにあった八月に、元稹が越州刺史・浙東観察使に任じられたという報せが飛び込んできた。
越州は、銭塘江をはさんだ隣の州である。
これが歓ばずにいられようか。
十月に、元稹が杭州に立ち寄り、白居易に会ってから任地に赴いた。
それから二人は、銭塘江をはさんで詩文のやりとりをおこなった。
堰堤を築く工事は農閑期を待って始められ、翌長慶四年(八二四年)の春に完成し、
貯まった水を千頃(約五十五ヘクタール)の田に引いた。
この堤防は、
「白堤」
と、よばれた。

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