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中国史人物伝

異能なきも劉備に寵愛され、孔明の御伽衆になった”第三の男” 劉琰(三国 蜀)

無能でありながら家柄がよいだけで高位を得た人物を例示するなら、枚挙に暇がない。

三国時代の蜀漢では、
劉琰(あざなは威碩)(?-234)
の名が挙げられよう。

漢室の血胤であったがゆえに劉備玄徳から寵愛され、

異能もないのに諸葛亮孔明、李厳につぐ第三位の席次を与えられた。

その上美女を妻に迎えたかれに、世間はどんな感情をいだいたであろうか。

部下に命じて妻に暴行させたかどで棄死されたというかれの末路は、

このあたりに起因したのではなかろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

第三の男

劉琰は、(豫州の)魯国の出身であった。
劉備が豫州の刺史(州の長官)になると、辟召されて従事(属官)になった。
劉琰は風流であったうえに、談論に長けていた。
それに同姓ということもあり、劉備から親しまれ、厚遇された。
その後、劉備が各地を流浪するになると、劉琰はつねに賓客として随従した。
劉備が益州を平定すると、劉琰は固陵太守に任じられた。
劉禅が皇帝になると、都郷侯に封じられ、
衛尉、中軍師、後将軍に任じられ、丞相(首相)の諸葛亮、尚書令の李厳に亜ぐ席次を与えられた。
建興八年(二三〇年)に、李厳が驃騎将軍に任じられると、劉琰は車騎将軍に遷任された。
軍官の序列は、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、前後左右将軍の順であるから、かなりの高位である。
それなのに、国政に容喙することが許されなかったので、
わずか千人余の兵を部下に従え、陰で政策を批評するしかなかった。
その鬱憤のはけ口を、日常生活に求めたのは、いかにも風流の士らしいといえようか。
劉琰の車馬、衣服、飲食は奢侈をうたわれ、声楽がうまい侍婢数十人に
後漢の王延寿が作った『魯霊光殿賦』を教え、誦読させた(かれが魯の出身であったからであろう)。

貶 斥

建興十年(二三二年)、漢中において前軍師の魏延と不和となったあげく、虚誕(大げさなうそ)を吐き、
諸葛亮からせめられた。劉琰は諸葛亮につぎのような牋書(手紙)を送って謝罪した。
「われは天性空虚で、もとより素行がよくないうえに、酒乱癖がありまして、
先帝の御世から紛紜(もめごと)を生じ、ほとんど滅びかかろうとしておりました。
明公がわれの国をおもう一心をおくみとりいただき、わが身の穢垢(けがれ)をお許しくださり、
われをお救いくださいました。おかげで、今日まで禄位をうしなわずにいることができました。
先日は迷酔し、誤ったことを申してしまいましたが、厚い情けをかけてくださり、
司直の手に委ねられることをなさらず、わが身命を保全させてくださいました。
必ずやわが身を責め悔いておのれに克ち、過ちを改めて挺身いたしますことを神霊に誓います。
ご命令を承りませんかぎり、われに居場所はございません」
諸葛亮は劉琰を成都に還らせ、官位はそのままとされた。
成都で、劉琰は、失意のうちに放心してしまった。

朝 賀

当時、年始に大臣の妻母が朝賀に参内するならわしがあったらしい。
建興十二年(二三四年)正月、劉琰の妻の胡氏が年賀のため参内し、呉太后に拝謁した。
胡氏は呉太后にひき留められてしまい、ひと月が経ってようやく退出することができた。
胡氏は、美女であった。それゆえ、
「まさか陛下と――」
と、劉琰は疑念をいだき、五百(吏卒)を呼んで胡氏を鞭うたせ、履で顔を搏った。
それだけでは劉琰の怒りは収まらず、ついに胡氏と離縁してしまった。
胡氏がこれを怨んで劉琰を訟えたので、劉琰は罪に抵てられ、獄に下された。
「吏卒は妻を撾つ人ではなく、顔は履を受ける地ではない」
審理の結果、劉琰は棄市された。
これ以後、大臣の妻母が朝賀に参内するならわしは廃止された。

罪科に対し過重な量刑が執行された時期が、諸葛亮の死の直前であったことをおもえば、
新政権にとって無用の長物になり得る存在を予め取り除こうとする意図があったかもしれない。
これは、政権に権威をつけてきた劉琰の利用価値がなくなったことを意味しよう。

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