後進領袖 曹爽一派から西晋建国の功臣になった中国地図学の祖 裴秀(魏晋)
「中国にいれば、人を乱すことはできても、治めることはできません。
もし、間隙に乗じて辺境に拠り、険地を守れば、一方の主になることはできましょう」
と、先見の明をみせた裴潜を父にもつ
裴秀(あざなは季彦)(223-271)
は、妾腹の出ながら名家を襲ぎ、曹爽の配下になりながら司馬昭のブレーンに抜擢され、
司馬昭の子司馬炎(西晋の武帝)を擁立し、人臣の最高位に昇った裴秀が後世称賛されたのは、
その政治的事績よりも、
『禹貢地域図』
という地図を作成し、
「制図六体」
なる世界初の地図作成理論を提唱したことにあった。
いまや、『禹貢地域図』に言及せずに中国の地図を語れなくなったことで、
不朽の存在となった裴秀の最期は、
不老不死を願って服用した薬のノンコンプライアンスであり、
その生涯を通観するに、惹きつけられるものがある。
中国史人物伝シリーズ
裴秀を引き立てた曹爽の右腕 何晏
目次
- ○ 領 袖
- ○ 曹爽の故吏から司馬昭の幕下へ
- ○ 驥尾に付す
- ○ 人有相否
- ○ 当世名公
- ○ 不老不死を求めた果てに
- ○ 『禹貢地域図』と製図六体
領 袖
裴秀は河東郡聞喜県出身で、若いころから学問を好み、風操(品格)があり、
八歳でよい文章を作ったことから、若年ながら名声があった。
叔父の裴徽(裴松之の六世の祖)には盛名があり、多くの賓客が訪れてきた。
裴秀が十歳を超えたとき、裴徽を訪ねてきた人はみな、裴秀にあいさつしてから帰った。
これを快くおもわない家人がいた。父の正妻の宣氏である。
宣氏は出自の賎しい裴秀の母を蔑み、客に饌(馳走)を進めさせた。
それをみて、満座がざわめいた。
「この通り微賤ではございますが、この児がいるからなのでしょう」
と、裴潜の母が毅然といったところ、宣氏は給仕をやめさせた。
これをきいて、当時の人びとは、
「領袖になるのは、裴秀だ」
と、語りあった。
曹爽の故吏から司馬昭の幕下へ
裴秀は、同郷であった渡遼将軍毌丘倹の推薦により、大将軍曹爽に辟召され、その掾(属官)となった。
正始五年(二四四年)父の裴潜が亡くなると、爵位であった清陽亭侯(食邑二百戸)を襲いだ。
正始九年(二四八年)に、吏部尚書(人事部長)であった何晏の推挙により、
賈充や朱整らとともに黄門侍郎(皇帝近侍の官)に任用された。
その後は曹爽の右腕としていまをときめく何晏の手引きで龍門に登るかにおもわれたが、
翌年に曹爽が誅されると、裴秀は故吏であったゆえ免ぜられた。
だが、かれに寄せられた名声が、かれを長く野に埋もれさせなかった。
裴秀はしばらくして廷尉正(上級判事)に任じられると、司馬昭の軍司馬に採用された。
司馬昭から信頼されたことで、裴秀の前途に光が差し込んだ。
驥尾に付す
司馬昭の幕下から散騎常侍(門下省の副長官)に遷任された裴秀は、
甘露二年(二五七年)、司馬昭が諸葛誕を討伐した際に参謀として従軍し、謀略に参与した。
遠征から凱帰した後、裴秀は尚書(皇帝の秘書官)に転任し、魯陽郷侯に進められ、千戸を加増された。
景元元年(二六〇年)に元帝(曹奐)を擁立した功により県侯に進められて七百戸を加増され、
尚書僕射(尚書台の副長官)に遷任された。
三年後に蜀漢を滅ぼした司馬昭は、咸熈元年(二六四年)に晋王になると、
新王朝樹立を見据え、改革に着手した。
そのなかで官制改革を命じられた裴秀は、周代にあった
「五等の爵」(公、侯、伯、子、男)
という制度を復活させるよう建議した。
それを受け、騎督(最下級の司令官)以上の六百余人がみな封ぜられ、世襲とされた。
裴秀も済川侯に封ぜられ、六十里四方の領地と千四百戸の食邑を賜った。
人有相否
司馬昭は晋王になったものの、すぐには太子を立てなかった。あるとき、裴秀は、
「大将軍(司馬師)は道半ばにして亡くなり、われはただ後事を受けついだまでじゃ。
ゆえに攸を立て、功を兄(司馬師)に返そうとおもうが、どうか」
と、司馬昭に諮われた。
司馬攸は司馬昭の子で、子のなかった司馬師の後嗣として養子に出されていた。
――年長者を廃して年少者を立てるのは、礼に違い不祥である。
そう意った裴秀は、
「中撫軍(司馬炎)は厚い人望をお集めになられ、
髪は地に届き、手は膝下まで垂れ、人臣の相ではございません」
と、応え、司馬昭の嫡子で、司馬攸の兄でもある司馬炎を推した。
そのかいあって、咸熈二年(二六五年)五月に司馬炎は太子に立てられた。
当世名公
咸熈二年(二六五年)八月、司馬昭が亡くなり、司馬炎が晋王になった。
その翌月に、裴秀は尚書令(尚書台の長官)、右光禄大夫(論議をつかさどる官)を拝命し、
開府を許され、給事中(顧問応対官)を加えられた。
これは、宰相と同等の待遇といってよい。
――祖父(裴茂)も、父(裴潜)も、尚書令であった。
裴秀は、深い感慨をおぼえた。
その年の十二月に司馬炎が皇帝になり、晋王朝を開くと、
裴秀は尚書令に左光禄大夫を加えられ、鉅鹿郡公に封ぜられ、三千戸の食邑を賜った。
裴秀は魏晋革命期に尚書令の重職を務め、要諦を穿ち、礼に悖るところがなかった。
これを高く評価され、泰始四年(二六八年)正月辛未に、裴秀は司空(副首相)に昇った。
裴秀は広汎な儒学の知識があるうえに、政事に心を砕いた。
裴秀は朝廷の儀礼を制定し、刑罰や政治について広く意見を述べた。
朝廷はその多くを採用して故事とした。
裴秀は司空を四年務め、当世の名公と称された。
不老不死を求めた果てに
皇帝から敬重され、声望も高かった裴秀の生命を奪ったのは、
寒食散(五石散)
という仙薬であった。
かつて裴秀を推挙した何晏が愛用して流行したこの薬は、毒性が強く、服用後が大変であった。
寒食散を服用すると、体温が上がるため、外を歩いてからだの火照りを冷ましたらしい。
(これが、「散歩」の語源とされる。)
歩いたら発熱し、その後悪寒がする。
寒気がしたら冷たいものを食べ、服を脱ぎ、冷水で行水し、熱い酒を飲まなければならない。
ところが、裴秀は熱酒でなく冷酒を飲んでしまったらしい。
これがもとで、泰始七年(二七一年)三月丙戌(七日)に四十八歳で亡くなった。
不老不死を希求して服用した薬が生命取りになってしまったのは、皮肉なことである。
四年後の咸寧元年(二七五年)に、
裴秀は、晋建国の功臣として賈充、荀顗、羊祜らとともに廟庭(宗廟)に合祀された。
『禹貢地域図』と製図六体
裴秀の事績で特筆すべきは、何といっても中国初の歴史地図集『禹貢地域図』の作成である。
当時は特に軍事において、地図が活用されていた。
しかし、その確度は精緻とは程遠く、
地図をもとに進軍すると、実地と大きく異なることが少なくなかった。
そこで、裴秀は各地の地理情報を集め、
『書経』の禹貢の記載内容を、晋初当時の実情に合わせつつ、実用に足る地図の製作にとりかかった。
『書経』の禹貢は、中国を九州に分け、山、海、川、土壌、物産などを記述したもので、
中国の地理書として当時非常に権威があった。
禹貢に記された山、海、川や原隰(原野)および陂沢(池)などの地名が
魏晋の当時には変わってしまっていたため、むかしの地名と地名を併記した。
さらに、むかしの九州の境界と当時の十六州の境界とを対比できるようにした。
これらをまとめたのが、『禹貢地域図』十八篇である。
この地図自体は現存しないが、その序文が『晋書』裴秀伝に残っている。
それによれば、製図には、以下に示す六つの要素がある。
分率(縮尺)
准望(方位)
道里(実際の距離)
高下(高さの差)
方邪(水平距離への換算)
迂直(直線距離への換算)
「製図六体」と称されるこれらの要素を組み合わせることで、
地図上の縮尺、方位ならびに距離から実際の位置等を精密に割り出すことができるという。
製図六体は世界的にも画期的な提唱で、
明末に西欧の製図法が入ってくるまで、千三百年以上ものあいだ踏襲された。
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