筹策多く威名あれども循行なし ローマ兵と戦った(⁉)名将 陳湯(前漢)(1) 西域
二千年前に広大な版図を有した東西の二大帝国の兵士が干戈を交えていたとしたら……。
そんな夢のような出来事が実際にあったとする説がある。
紀元前36年に、漢の陳湯が西匈奴の郅支単于を征討し、誅滅した。
その際に投降し、漢に連行された匈奴兵のなかに、ローマ兵が含まれていたというのである。
遡ること17年前(紀元前53年)にカエサルのライバルであったクラッススが大軍を率いて
カルラエ(トルコのハッラーン)まで遠征し、パルティア(現在のイラン)と戦った。
この戦いでローマ軍は四倍以上の兵力を有しながら、
パルティア軍の奇襲にあって敗れ、クラッススが戦死するという大敗を喫した。
このとき、退路を絶たれたローマ兵が西域に逃げこんで郅支単于の配下になったとされる。
現在のところ、この説の信憑性は乏しいが、
陳湯がローマ兵と戦った可能性があるとおもえば胸躍るものがある。
中国史人物伝シリーズ
目次
西域副校尉
陳湯(あざなは子公)は山陽郡瑕丘県出身で、若いころから書を好み、博学で、文をつくるのがうまかった。
しかし、家が貧しくて、節操なく借財をくり返したので、州里で評判が悪かった。
陳湯は、首都長安に上り仕官を求め、太官の献食丞(膳食をつかさどる官)になった。
すると、富平侯張勃(張安世の子)から目をかけられるようになり、
初元二年(紀元前四七年)に秀才を挙げるようにとの詔が出されると、張勃が陳湯を推挙してくれた。
詔を待っているあいだに、父が亡くなった。それなのに、陳湯は帰郷して喪に服さなかった。
そのため、司隷校尉(警視総監)から、
「おこないがよくない」
と、奏聞され、獄に下された。
のちにまた推薦されて郎(侍従官)となると、
「外国に使わしてくださいますよう」
と、何度も願い出た。
やがて陳湯は西域副校尉(西域統括副長官)に遷任され、西域都護(西域統括長官)の甘延寿とともに
西域都護府がある烏塁城(新疆ウイグル自治区の東方チャディール)に赴任した。
郅支単于
このころ、長く漢王朝を悩まし続けてきた匈奴が東西に分裂し、たがいに争いあっていた。
東匈奴の呼韓邪単于と西匈奴の郅支単于がそれぞれ子を人質として差し出してくると、
漢はどちらも受けいれた。
甘露三年(紀元前五一年)に、呼韓邪単于みずから臣と称して漢に入朝すると、
漢は兵をだして、呼韓邪単于を援護した。
郅支単于はこれを怨み、漢の使者を困辱した。
初元四年(紀元前四五年)、郅支単于は使者を漢へ遣わして貢物を奉献し、
さきに人質に出した子の返還を求め、帰服を願いでた。
漢は、衛司馬の谷吉を遣わして郅支単于の子を父のもとへ送らせた。
ところが、谷吉が郅支単于のもとに至ると、殺されてしまった。
郅支単于は漢の報復を恐れて西方に奔り、
康居(現在のウズベキスタン南部)と同盟して烏孫(現在のキルギス)を攻めて勝ち、
天山山脈北麓の都頼水(タラス川)河畔に城(郅支城)を築き、本拠とした。
漢は、康居に使者を遣わして、谷吉らの亡骸の引き渡しを求めた。
郅支単于は漢の使者を困辱し、要求に応じないばかりか、
「困厄しておりますゆえ、願わくは強漢に帰服し、子を遣わして天子に侍らせたく存じます」
と、西域都護を通じて漢朝を挑発した。
策 謀
——郅支単于が康居を軽んじ、周辺諸国に貢納を求めて反発を受けている。
甘延寿と陳湯はそう判じ、出陣した。建昭三年(紀元前三六年)のことである。
出陣の際に、陳湯が甘延寿につぎのような献策をおこなった。
「夷狄が大種族に畏服するのは天性である。
西域はもとは匈奴に属していたが、いまや郅支単于は遠方まで威名をとどろかせ、常に康居のために画策し、
烏孫と大宛(フェルガナ、現在のウズベキスタン東部)に侵略し、降服させようとしている。
もし康居がこの二国を得れば、北のかた伊列(新疆イリ草原)を撃ち、
西のかた安息(パルティア、現在のイラン)を取り、
南のかた月氏(パミール高原西部)や烏弋山離(現在のアフガニスタン南部)をしりぞけ、
数年のうちに城郭諸国は存亡の危機に瀕しよう。
郅支単于の人となりは剽悍で、戦争を好み、何度も勝っているので、放っておくと必ず西域の患いとなろう。
匈奴から遠く離れた地にいるとはいえ、金城や強弩の守りがないので、
もし屯田の吏士を徴発し、烏孫の衆兵を駆使し、居城をめざしてまっすぐに進撃すれば、
逃げようにも逃げるところがなく、守ろうにも安心できず、一朝にして千載の功が成ろう」
矯 制
「早速奏請しよう」
甘延寿がそう応じると、陳湯は、
「凡人には大策はわからん。聴きいれてはくれまい」
と、反対し、朝廷の裁可を仰がずに進撃するよう主張した。
しかし、甘延寿はためらって耳を貸さなかった。
たまたま甘延寿が久しく罹病したので、陳湯は制詔を矯めいつわり、
「勅命である」
として、西域の城郭諸国の兵および車師の戊己校尉の屯田の吏士を徴発した。
甘延寿がこれをきいておどろいて飛び起き、出兵を止めようとした。
陳湯は怒り、剣を手に、
「すでに大衆が集まっているのに、豎子はこれを沮むつもりか」
と、甘延寿を叱りつけた。
「やむを得ん」
甘延寿は軍旅を整え、六校を編成した。その兵数は、漢兵と胡兵合わせて四万余人であった。
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