善は衆の主 苦悶の宰相 欒書(欒武子)(春秋 晋)(7) 六間
紀元前575年6月、晋楚両軍が、鄭の鄢陵で対峙した。
この期に及んでも、士燮は会戦を回避させようと軍議において長広舌をふるった。
しかし、かれに同調する者はいなかった。
「戦ってもし勝ってしまえば、厲公や三郤が増長し、抑えられなくなってしまう」
という士燮の指摘は、欒書がかねてからいだいていた懸念そのものであり、
欒書は心中では士燮に賛同したものの、
楚軍との交戦を望む厲公や三郤らに押し切られて
会戦に踏み切るしかなかった。
中国史人物伝シリーズ
欒書(1) 邲の戦い
欒書(2) 善は衆の主
欒書(3) 揺蕩
欒書(4) 不戦条約
欒書(5) 苦悶
目次
固守の勧め
六月甲午晦(二十九日)、早朝に、楚軍が布陣をはじめた。
「何をためらっておる。疾く攻めよ」
と、厲公からせかされて、
「君が(欒)黶らに斉や魯の軍を起たせようとなされたのですから、どうかそれをお待ちくださいますよう」
と、欒書は懇願した。すると、満座から失笑が漏れた。
「おいおい、楚は、斉や魯の援軍など待ってはくれぬぞ」
欒書は諸将の非難にさらされても、
「楚軍は軽佻じゃ。壘を固くして待てばよい。三日すれば、きっと退くであろう。
退却する敵軍を攻撃すれば、勝ちを得ること必定じゃ」
と、真顔で存念を述べた。それにたいし、郤至は、
「それはいけません」
と、するどく言を揚げ、
「楚軍は退こうとしています。攻撃すれば、きっと勝って凱帰することができます」
と、いい切った。
六 間
郤至は、勝利を確信する理由として、
「楚には六間があります」
と、指摘した。間とは、つけこむべき間隙ということである。郤至によると、
・(陰気が衰えているため、)布陣を忌むべき晦日に布陣を敢行した。
・南夷の兵を引き連れていながら一緒に布陣していない。
・楚と鄭の陣が整っていない。
・士卒が陣中で騒がしい。
・兵衆が騒がしいのを聞けば、必ず懼れを抱くようになる。
・鄭軍は楚軍の顔色をうかがい、楚軍は南夷の兵の顔色をうかがおうとして、闘志ある者がいない。
という六つの間隙が楚軍にはあり、
「この好機を逃してはならず、ここで攻撃すれば、必ず勝てます」
と、主張した。さらに、たたみかけるように、
「どの兵も後方をふり返り、士気があがっておりません。
楚君を護衛する兵とて精兵というわけでもなさそうですし、禁忌すら犯しております。必ず勝てます」
と、説いた。
それをきいて、厲公はよろこび、
「おお、そうじゃ。疾く攻めよ」
と、諸将に出陣を促した。
苗賁皇
楚の共王の父荘王のとき、令尹(首相)の子越が叛乱を起こし、失敗した。
乱後、子越の子苗賁皇は出奔し、晋に仕えた。
その苗賁皇が従軍して厲公のかたわらに侍り、楚軍のようすをつぶさに告げた。
「国士がいて大軍じゃ。戦ってはなりません」
と、諸将は口ぐちにいった。
国士とは、前年に殺された伯宗の子で楚に亡命し、共王の軍師になっていた伯州犂のことである。
しかし、苗賁皇は、
「楚の精鋭は、中軍にいる王の直属兵のみにございます。
どうか精鋭を分けて楚の左軍と右軍を攻撃なさいませ。
それから三軍を楚王の直属兵に集中攻撃させれば、必ず大勝できます」
と、厲公に進言した。
そこで、厲公は史官に命じて苗賁皇の策戦を筮で占わせた。
「吉です。復の卦を得ました。南国が縮まり、王が傷つく、ということです。楚は敗れるほかございません」
これをきいて、厲公はよろこび、苗賁皇の策を実行に移すよう諸将に命じた。
ついに、晋の四軍が、楚軍めがけて出撃をはじめた。
淖
前進をはじめた晋軍の行く手に、
「淖」
が広がっていた。
淖は泥のことであるが、ここでは、泥沼あるいはぬかるみを想うのが妥当であろう。
晋の兵馬はみな、淖を左右に避けて進んだ。
ところが、厲公の兵車が淖にはまってしまい、そのはずみで厲公は車右とともに兵車から投げだされてしまい、
泥にまみれてしまった。
これは御者の過失であるが、郤毅(郤至の弟)を御者にした厲公の軽躁さの結果であるとも観て取れる。
――やれ、やれ。
欒書は兵車からおりて淖の中にはいり、厲公に綏をさしだして自身の兵車に乗せようとした。すると、
「書よ、退け」
と、叱声を浴びた。
欒書は、声の主のほうをみた。
——鍼ではないか。
欒鍼は欒書の子で、厲公とともに淖中に投げだされた車右こそが、かれであった。
欒書は、なかば戸惑いつつ泥にまみれたわが子をみつめた。
「国に大任あり。なにゆえ独り占めしようとするのか。それに、官職を侵すのは冒である。
官職を失うのは、怠慢である。持ち場を離れるのは姦邪である。
これら三つの罪を犯すようなことをしてはならぬ」
欒鍼は、そういって父を制すると、兵車から降りて厲公を引きあげ、淖から救いだした。
この父子の関係は険悪ではない。むしろその逆であったからこそ出た発言なのであろう。
公衆の面前で父を諱で叱りつけるのは、礼を失しているようにおもえるが、
君主の面前であれば、たとえ父祖であっても諱で呼ぶのが当時の礼であったらしい。
シェアする