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中国史人物伝

孔子に”忠なり”と評された楚の名宰相 子文(闘㝅於菟)(2) 先見

子文(1)はこちら>>

長く政権を保持できた権力者でも、後継者択びには頭を悩まされよう。

28年ものあいだ楚の宰相を務めた子文が後を任せたのは、猛将の子玉であった。

子玉も子文とおなじ若敖氏で、将軍としても実績があった。

国人の多くが、子玉を大国の舵取りを任せるのに十分な器量の持ち主だと評価した。

しかし、子玉の資質に疑義を呈する高官もいた。

中国史人物伝シリーズ

目次

慣 例

子文の暮らしぶりは、たいそう質素であった。
かれは緇(黒)布の衣服を着て参朝し、ふだんは鹿の皮衣を着ていた(いずれも粗衣)。
未明から朝廷に出仕し、日が暮れてから帰宅した。
食事は朝食だけを考えて夕食を考えず、一日分のたくわえすらなかった。
そんな調子であるから、令尹を辞めると、一日分の蓄えすらなかった。
「子文は、朝から夕まで食いつなげることができないそうです」
近臣からそう聞かされた成王は、子文が朝見するたびに、
脯(乾肉)一束、糗(乾飯)一筐(かご)を下賜した。
以後、楚では王が令尹に対してそうすることが恒例になった。
子文の廉潔ぶりが、朝廷に新たな先例を創らせた。

後継者

成王三十五年(紀元前六三七年)に、子玉(成得臣)が楚の盟下から脱けようとした陳を伐った。
「これは子玉の功じゃ」
と、子文は激賞し、子玉に令尹の位を譲った。
「あなたは、この国をどうなさるおつもりですか」
大臣の蔿呂臣からそう不満をぶつけられ、子文は、
「われは国を安んじようとしてそうしたのだ。
大功を立てても高位に就かなければ、安心して落ち着いてなどおれようか」
と、答えた。
かれにとっては、子玉の矜持を知りぬいた上での人事なのであろう。
四年後、宋が晋の文公(重耳)を恃んで楚にそむいた。
成王は農閑期を待ってから宋に攻め入ろうとし、まず子文に軍事演習をさせた。
――子玉に名をなさしめよう。
子文はそうおもい、わざと手を抜いた。
すなわち、夜明けから始めた演習を朝食までで切り上げ、兵をたれひとり罰しなかった。
――生ぬるい。
そう感じた成王は、今度は子玉に軍事演習をさせた。
子玉はまる一日をかけ、七人を鞭打ち、三人の耳を矢で貫通させるという厳しい演習をして、成王を満足させた。
「よい方を後任に択ばれた」
国老(引退した卿大夫)たちがみなそういって子文を賀い、子文も喜び、国老たちに酒をふるまった。
ところが、後からやってきた蔿賈(蔿呂臣の子)は賀わなかった。
「なんじは、なにゆえわれを賀ってくれぬのじゃ」
子文がいぶかり、わけをたずねると、蔿賈は、
「何を賀うのかわかりません。あなたが国政を子玉にお任せになられたのは、国を安んじようとしたからだ、
と仰せでした。国内を安んじても、国外で敗れれば、どれくらいの利益がありましょう。
子玉が敗れれば、推挙したあなたのせいにされてしまいます。
推挙して国が敗れるのですから、何を賀うのでしょうか。
子玉は剛愎で無礼です。人民を治めることなどできません。
兵車三百乗以上を率いれば、帰還できないでしょう。
帰ってきてから賀しても、遅いということはありますまい」
と、答えた。
蔿呂臣の子である蔿賈は、子文に皮肉をいいたかったのかもしれない。
果たして、翌年、子玉は大軍を率いて晋と城僕で戦って大敗し、覇権を晋に奪われてしまった。
このとき、蔿賈はまだ年若かったとはいえ、これだけのことがいえたのであるから、
すでに見識が高かったことが窺えよう。

一族の存亡

子文は、死の間際まで一族の行く末を案じていた。
弟の子良に子の闘椒(子越)が生まれると、
「この子を殺せ」
と、半ば命じるようにいった。子良がわけをたずねると、子文は、
「この子は、熊や虎のような姿をし、豺や狼のような声を発している。
殺しておかなければ、必ず若敖氏は滅びることになろう。
狼の子は馴化させることができず、人に危害を与えるだけだ。
この子は狼だから、養ってはならぬ」
と、警告した。しかし、子良はこれを聞き捨てにしてしまった。
子文はこの残忍な甥の存在を気に病み、死の間際に一族を集めて、
「椒が政治を行うようになれば、速やかに去るがよい。危難に巻き込まれないようにせよ」
と、警告し、
「死してなお食物を求めるのであれば、若敖氏の先祖は、きっと飢えることになろう」
と、涙を流しました。
のちに令尹になった子越は、荘王に反旗を翻し、滅ぼされてしまった。
虎の乳で育られた子文には、神知があったのであろうか。
しかし、これで若敖氏は滅びなかった。
「子文のような功績がありながら子孫が絶えてなくなれば、どのようにして善行を勧めることができようか」
荘王は子文の治世をおもい、子文の孫を許した。
子文の徳が、若敖氏を救ったのである。
やがて若敖氏は勢いを取り戻し、再び令尹を輩出することになる。

補 遺

『春秋左氏伝』(宣公四年)にある虎の乳で育てられた逸話が真実であるならば、
子文の生年は、祖父である若敖の没年から鑑みて、紀元前七五〇年代であろうと推察される。
子文は紀元前六三三年までは生きていたが、そうなれば、かれは百二十歳くらいまで生きたのであろうか。
これが不自然だとすれば、子文が虎の乳で育てられたという逸話の真偽を疑うしかないが、どうであろうか。

なお、『漢書』の著者である班固が子文の末裔であることも付記しておく(班は、子文の子である闘般の号)。

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