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中国史人物伝

中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(4) 長恨歌

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貞元二十一年(八〇五年)に順宗が即位すると、劉禹錫や柳宗元ら

白居易と同年代の気鋭の官僚が引き立てられ、異例の出世を果たした。

かれらの改革は急進的すぎたため、宦官らの巻返しに遭い、

順宗が退位させられて憲宗が擁立され、劉禹錫や柳宗元らは左遷された。

かれらの出世に焦りを感じた白居易は、さらなる出世と待遇の改善を求めるべく、

元和元年(八〇六年)に、親友の元愼とともに皇帝の親試である制挙(制科)を受験した。

首席で及第した元稹は、なんといきなり右拾遺に抜擢され、皇帝に近侍することになった。

そして、次席の白居易は、盩厔(ちゅちつ)県の県尉を授けられた。

新たに任官した官僚に中央で見習いをさせてから

地方に出して行政の実務を体験させるのは、当時の慣行であった。

中国史人物伝シリーズ

目次

県尉の仕事

盩厔は、長安から西へ百十六里(約六十五キロメートル)ほど離れた京兆府の県である。
そこに五月に赴任した白居易は、農民から税を取り立てる仕事にあたった。
さらに七月には、県尉を兼務する昭応県へも行った。
昭応県は、かつて玄宗が楊貴妃をともなって湯あみを楽しんだ離宮(驪山華清宮)の付近にある。
たとえ能吏であったとしても、長安をはさんで東西に離れた二県の県尉を兼ねるのは、過重な負担であった。
さらに、日々の暮らしに難儀しているような貧しい農民から税を取り立てる仕事は、
白居易にとって苦痛でしかなかった。
その不満を気軽にぶちまけられる相手は、元稹しかいない。

趨走の吏

白居易は、盩厔県の県尉であったときに元稹にあてた詩(「権摂昭応、早秋書事、寄元拾遺、兼呈李司録」)に、
丹陛(朝廷)に子(元稹)は諫を司り
赤県(昭応)に我は徒らに労す
相去ること半日の程なるも、同に遊遨(あそぶ)するを得ず
盩厔は畿内、すなわち京兆府の管轄にある上県であり、品階も従八品下に上がったわけであるから
昇進には違いないが、七歳下の元稹が天子に近侍できる身分になったのに比べれば、
地方に出されたのは、いかにもみすぼらしく感じられた。
皇帝の親試に及第すれば劉禹錫がしたような異例の昇進を遂げられるのではないか。
そうもくろんでいた白居易は、この現実に幻滅するしかなかった。
白居易はこの詩で、自身を、
「趨走の吏」
と、自嘲ぎみに称し、
「何ぞ必ず鉛刀を使はん」
と、有為な人材をふさわしくない場所に用いている現実を嘆いた。
九月になると、元稹が河南県の県尉に転出となった旨の報せを受けた。
上書の内容が執政らの反感を買ったらしい。
さらに不幸なことに、かれを女手ひとつで育ててくれた母が亡くなり、服喪のため、官を辞した。
――高位を保つのも大変なのか。
元稹の苦労をおもいやった白居易は、元稹とたがいの詩に唱和してやり取りを続けた。

長恨歌

このころ、白居易は王質夫と親しくなり、県城近くの山中にある仙遊寺にともに出かけるようになった。
王質夫については、盩厔県に住む布衣の人であったことしかわからない。
十二月に、白居易は、王質夫、それに前年に進士に及第したばかりの陳鴻と三人で仙遊寺を訪れた。
「あれから五十年経ったのか」
と、陳鴻がつぶやいた。
あれとは、楊貴妃が安禄山の挙兵で長安から落ちる途中、馬嵬で非業の死を遂げたときのことをさす。
馬嵬は、盩厔から三十五里(約二十キロメートル)ほど北方の渭水をはさんだ対岸という近くにあった。
「あの悲劇をうたってみては」
と、王質夫が白居易に勧めた。
「そは、をかし」
と、白居易が応じ、
「ならば、われは伝(解説)を」
と、陳鴻がいってできたのが、『長恨歌』である。
『長恨歌』は、数年のうちに都人士のあいだで大変な人気を博し、白居易は詩人として名声を得ることになる。

婚 約

元和二年(八〇七年)一月、白居易は『長恨歌』を携えて長安へゆき、友人の楊虞卿と楊汝士に会った。
二人は従兄弟で、楊虞卿は白居易の十一歳年下の二十五歳、
楊汝士の生年は不明であるが、白居易よりも六、七歳年下とおもわれる。
白居易は三月二十日まで楊家に滞在し、楊汝士の妹と婚約した。
この間、白居易は、前年に亡くなった元稹の母の墓誌銘を書いた。
また、弟の白行簡が、三十二歳で進士科に及第した。
晩春に盩厔県に戻った白居易は、困窮する農民に同情するとともにその生活の苦しさをわかっていながらも
職務として税をとりければならない良心の呵責にさいなまれつつ、
「麦を刈るを観る詩」を詠んだ。
白居易は閑居を望む一方で、困窮する民を救いたいという済民の志もいだいていた。
後者を果たすには、中央政府に復帰して出世しなければならない。
白居易は、相反するふたつの理想のあいだで葛藤していた。

翰林学士

白居易は、七月に府詩官(京兆府の府試の試験官)として長安に召還されて
試験問題の作成にあたることになり、秋に集賢院校理を兼務させられた。
さらに、翰林院に呼び出され、制詔についての論策を命じられた。
その結果、白居易は十一月五日に翰林学士を授かった。
翰林学士は皇帝の秘書官で、詔勅などの草案を起草した。
その一方で、白居易は、新婚生活に備え、長安城の東に位置する新昌里に家を借りて住んだ。

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