剛直ゆえに次の丞相で終わった高節の儒者 蕭望之(前漢)(3) 扶政
蕭望之(2)はこちら≫
農家の出でありながら儒学を修め、名声を得た蕭望之は、
剛直ゆえに霍光に招かれた他の者の後塵を拝したものの、
仕官後は、その博識と便宜により宣帝に気に入られて、
昇進を重ね、大鴻臚(外務大臣)に昇った。
中国史人物伝シリーズ
目次
少主降嫁
長策に非ず
蕭望之が左馮翊(首都圏北部の長官)の任にあった元康二年(紀元前六四年)、
西域から漢朝に上書が届けられた。
「漢の外孫である元貴靡を後嗣とし、ふたたび少主(宗室の女)を娶わせてほしい」
烏孫(現在のキルギス)の昆彌(王)翁帰靡が常恵を通じてそう願い出てきた。
翁帰靡の夫人は、漢の公主であった。
公主といっても、皇帝の女ではない。
かつて呉楚七国の乱で呉王劉濞に呼応して叛旗を翻した楚王劉戊の孫女で、名を解憂といった。
翁帰靡と解憂のあいだに生まれたのが、元貴靡であった。
詔により、公卿で降嫁の可否を議論した。
「烏孫は絶域ですから、美言を信じて万里に婚を結ぶことは長久の策ではございません」
大鴻臚に遷任されていた蕭望之は、そう異見を述べたものの、聴き容れられなかった。
――匈奴という共通の敵がいる以上、烏孫と婚姻を重ね、親交を深めることは国益にかなおう。
そう考えた宣帝は、解憂の姪(弟の女)にあたる相夫を降嫁させることにし、
神爵二年(紀元前六〇年)、常恵を使者として相夫を元貴靡のもとへ送りとどけさせた。
ところが、一行がまだ塞を出ないうちに翁帰靡が死んでしまい、
あらたに昆彌となった泥彌は、漢との約に背いて自立した。
両端を持す
常恵が塞のもとから上書して、
「少主(相夫)を、敦煌郡にとどめおきたく存じます」
と、願い出てきた。詔により、公卿でその可否を議論した。
「なりません。烏孫は両端を持し(二心をいだき)、約を破ったのですから、その効果は予見できます。
まえの少主は烏孫に四十余年もいながら一向に親愛されず、辺境は不安定なままであります。
これがその験(しるし)です。いま元貴靡が王にならなかったため少主が還るのであれば、
四夷にそむくことにならず、中国にとって大いなる福幸になります。
少主の降嫁を止めなければ徭役が興りましょうが、その原因はここから起こるのです」
蕭望之がそう意見を述べると、宣帝はこれに従い、相夫を帰還させた。
のち烏孫は国が分裂し、元貴靡が大昆彌になったが、漢は相夫を娶わせなかった。
匈奴討伐
匈奴大乱
神爵三年(紀元前五九年)に丞相(首相)の魏相が亡くなり、丙吉が丞相に任じられると、
蕭望之が御史大夫(副首相)に任じられた。
そのころ、長く漢王朝を悩まし続けてきた匈奴が、乱れに乱れていた。
漢との和親を求めていた虚閭権渠単于が神爵二年(紀元前六〇年)に病死し、右賢王の屠耆堂が立った。
すると大臣が虚閭権渠単于の子を立てて呼韓邪単于とし、屠耆堂を撃ち滅ぼした。
これをみて諸王が自立し、五人の単于がならび立ち、こもごも戦いあった。
この報せを受け、
――この壊乱に乗じて兵を挙げ、匈奴を滅ぼすべし。
という意見がさかんにおこった。
徳之盛
勅使から計策を問われた蕭望之は、つぎのように奉答した。
「『春秋』(襄公十九年)に、晋の士匄が斉に侵攻したものの、斉侯の死去をきき、引き揚げた、
という記事があります。君子は喪中の国を伐たなかったことを立派であるとし、その恩は孝子を服するに足り、
その義は諸侯を動かすに足る、としました。
さきに単于が漢の王化を慕うて弟と称し、使者を遣わして和親を請い求めてきました。
海内は欣然とし、夷狄でこのことを聞かないものはございませんでした。
まだ約を果たさぬうちに不幸にも賊臣により殺されましたが、いま匈奴を伐てば、
乱に乗じて災を幸いとするものであり、匈奴はきっと奔走し、遠くへ遁げてしまいましょう。
義をもって兵を動かさなければ、労のわりに功はないでしょう。
よろしく使者を遣わして弔問し、その微弱を輔け、その災患を救うべきです。
これをきき、四夷はみな中国の仁義を貴びましょう。
もし漢の恩を受け、ふたたびその位に復すことができれば、きっと臣と称して服従しましょう。
これこそ大いなる徳といえましょう」
宣帝はこの意見に従い、兵をだして呼韓邪単于をたすけ、国を平定させた。
左 遷
丞相の丙吉は春秋が高く、幾度も辞任を願い出ているが、そのたびに宣帝が慰留していた。
このことをききつけた蕭望之は上奏し、つぎのように申しあげた。
「百姓が乏困し、盗賊がいまだ止まず、二千石(郡太守)の多くがその職に耐えることができません。
三公(丞相・御史大夫・大司馬)が適任でなければ、三光(日、月、星辰)も輝きません。
今年の正月に日月の光が少なかったことの咎は、臣らにございます」
これが宣帝の心証を悪くしたらしく、侍中の金安上らが勅使として遣わされ、詰問された。
蕭望之は、冠をぬいで弁解した。
後漢(東漢)の時代には災異が発生するたびに三公が罷免されたが、
長く巷間で育ったせいか現実主義であった宣帝には災異を宰相の責にする発想はなく、
蕭望之が丞相の丙吉を軽んじていると判じたようである。
ほどなく、つぎのような策命が蕭望之に下った。
「君が使者の礼を責め、丞相への礼遇を欠き、清廉の声も聞かれず、傲慢不遜であり、
政を扶け、百僚に率先していない、と有司が上奏してきた。君は深く思わずにこの穢れに陥ったのであろう。
朕は君を理に致す(獄に下す)に忍びないゆえ、君を太子太傅に左遷し、印を授ける。
もとの印(御史大夫の印綬)を使者にたてまつり、疾く赴任せよ」
こうして、廟堂の首座が蕭望之から遠ざかっていった。
シェアする