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中国史人物伝

建武の蕭何 剛柔使い分けて乱世を生き抜いた功臣 寇恂(後漢)(3) 宰相の器

寇恂(1)はこちら>>

寇恂(2)はこちら>>

――蕭何のような人物である。

という評価を劉秀と鄧禹からされた寇恂は、

河内太守に任じられると、外敵の寇掠を防ぎつつ、

劉秀の陣に糧食を切らすことなく送り続けた。

寇恂は河内太守を免ぜられた後、潁川太守に任じられ、

盗賊を掃討し、郡中を平穏にさせた。

剛胆さをみせてきた寇恂であったが、賈復に仇敵扱いされると、

藺相如に倣って賈復を避け、光武帝の仲裁で刎頸の交わりを結んだ。

学問を好み、郷校でみずから教鞭を執った寇恂は、

軍事にも行政にも手腕を発揮し、民心を収攬した。

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目次

太守を借りる

建武七年(三一年)、寇恂は朱浮に代わって執金吾(警視総監)となった。
翌年、寇恂は光武帝の隗囂討伐に従った。
ところが、潁川郡に盗賊が多数起こった。
そこで、光武帝はやむなく軍を引いて都に帰還すると、寇恂を召し、
「潁川は京師(都)のすぐ近くなので、ただちに平定すべし。
おもうに、それができるのは、卿だけであろう。
せっかく九卿(執金吾)になったのに都から出されることになるが、
国の憂いを取り除くためとおもって受けいれてもらいたい」
と、思いやって告げた。
寇恂は出世に恬淡なところがあり、そんなことを気にせず、
「潁川は剽軽なので、陛下が遠く険阻な道を越えて隴と蜀をお攻めになられるときき、
狂猾な連中がその隙に乗じてあざむこうとしたのでしょう。
もし陛下が南にむかわれたときけば、賊はきっと惶怖して降りましょう。
どうか臣に先鋒をお命じくださいますよう」
と、応えた。
その日のうちに光武帝は南へむかった。
寇恂がそれに従って潁川に至ると、盗賊はみな降った。
しかし、光武帝は寇恂を潁川太守に再任しなかった。
百姓たちが光武帝のゆく道を遮って、
「どうかまた寇君をお借りさせてください。一年でいいですから」
と、願いでた。
光武帝は寇恂を長社県にとどめて吏人を鎮撫させ、投降してくる者を受けいれさせた。

親 征

さきに光武帝が隗囂を親征したとき、隗囂の部将であった高峻を招降させた。
しかし、その後に呉漢らの軍が敗退すると、高峻は ふたたび隗囂の配下に戻り、
建武九年(三三年)に隗囂が死去すると、安定郡高平県の第一城に拠って漢軍に抵抗した。
これに対し、建威大将軍の耿弇が、大軍を率いて第一城を包囲した。
しかし、一年経っても抜くことができなかった。
そのため、光武帝がみずから高峻を征討することになった。
寇恂は、この親征に従った。建武十年(三四年)のことである。
軍が長安に到ったところで、寇恂は、
「長安は洛陽と高平の中間にあたり、対応するのに近くて便利です。
安定郡や隴西郡はきっと震懼いたしましょう。ここは一か所に落ち着いて四方を制するべきです。
いま、士馬は疲れ倦んでいるのに、険阻な地へ遣りましては、万乗の国の固めにはなりません。
前年の潁川のことを、至戒となさるべきです」
と、諫めたが、光武帝は聴きいれず、軍を汧県まで進めた。
はたして、高峻は抗戦のかまえを崩さなかった。
光武帝は高峻に降服を勧める使者をだそうとおもい、寇恂に、
「さきに卿はわれが軍を進めたのを止めようとした。そこで、わがために使いしてもらいたい。
もし高峻がただちに降らなければ、耿弇らの五営を率いてきゃつを撃て」
と、命じた。

高峻を降す

寇恂は、璽書を奉じて第一城へむかった。
すると、高峻は、軍師の皇甫文を寇恂の陣によこしてきた。
皇甫文は、寇恂に対し権高にふるまった。
「無礼なり——」
寇恂は怒り、皇甫文を誅そうとした。
「高峻は一万人の精兵を有し、強弓を引く兵も多く、西方の隴道を遮って何年も抵抗しています。
いま、きゃつを降そうとしながら、反対にその使者を戮するのは、まずいのではないでしょうか」
諸将がみなそう諫めたが、寇恂はきかず、ついに皇甫文を斬った。
寇恂はその副使を第一城へ帰し、
「軍師が無礼であったので、戮した。降ろうとおもうなら、急いで降れ。降る気がないのなら、固く守れ」
と、最後通牒を突きつけさせた。
高峻は惶恐し、その日のうちに城門を開いて降服した。
諸将はみなこれを賀し、
「おうかがいしますが、使者を殺したのに、城を降したのはどういったわけなのでしょうか」
と、たずねてきた。
「皇甫文は高峻の腹心で、高峻のために計を立てていたんじゃ。
それがいまやってきて、無礼であったのは、きっと降る気がなかったからじゃろう。
無事に帰せば、皇甫文は高峻に抵抗をつづけさせよう。じゃが、皇甫文を殺せば、高峻は膽を亡おう。
それゆえ降ったんじゃ」
寇恂がそう話すと、諸将は、
「とても及ぶところではございません」
と、感嘆の声を挙げた。
寇恂は、高峻を洛陽へ移送した。

宰相の器

寇恂は経典に明るく、品行方正で、朝廷で重んぜられた。
また、秩俸(給与)を得れば、朋友や昔なじみや部下に惜しみなく与え、
私腹を肥やすようなことはしなかった。
「われは士大夫のおかげでここまでになれた。ひとり占めしてよいものか」
常々そう語っていた寇恂を、人びとは長者であるとして心を寄せ、宰相の器であると評した。
寇恂は鼎位に昇ることのないまま、建武十二年(三六年)に亡くなった。
それでも、死後に二十八将の第五位に叙せられたのであるから、高く評価されていたことがうかがえる。

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