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中国史人物伝

剛直ゆえに次の丞相で終わった高節の儒者 蕭望之(前漢)(1) 従志

魏晋南北朝時代に江南を治めた

呉、晋(東晋)、宋、斉、梁、陳

の六つの王朝を、六朝と総称する。

このうち、『三国志』の英雄孫権が開いた呉に次いで日本人になじみがあるのは、

倭国の五人の王

讃、珍、済、興、武

が相次いで使者を遣った宋であろうか。

宋に続く斉および梁は、いずれも蘭陵蕭氏によって建てられた王朝で、

軍人であったかれらは、おのれの権威づけのため、漢王朝建国の元勲

蕭何

および、前漢の大臣

蕭望之(あざなは長倩)(?-前47)

を遠祖と称した。

蕭何と蕭望之の血胤も含めたこれらの真偽を現存の文献で確かめることはできないが、

漢の宣帝、元帝に重用され、人臣の最高位の一歩手前まで迫った蕭望之が、

蘭陵蕭氏繁栄の礎を築いた可能性まで否定してかかる必要もないのかもしれない。

中国史人物伝シリーズ

目次

修 学

蕭望之は東海郡蘭陵県出身で、のちに杜陵に徙った。
かれの家は代々農耕を家業としていた(が、十年にわたり学問ができるほどの家産を有した)。
蕭望之は学問を好み、『斉詩』(詩の一解釈)を治め、同郷の后倉に十年ばかり師事した。
その後、郡の命令で都へ上り、太常(儀礼祭祀担当省)で学業を受けた。
また、兄弟子の博士白奇に師事し、さらに夏侯勝から『論語』や『礼』の「喪服」を学び、
都じゅうの儒者から称賛された。
この名声が大将軍府にのぼったらしく、蕭望之は大将軍長史(副官)丙吉の推薦で、
儒生の王仲翁らとともに当時政柄を執っていた大将軍霍光に召されて謁見することになった。

身体検査

上官桀らを誅して(紀元前八〇年)以降、霍光は刺客に用心し、出入りする者を警戒するようになった。
すなわち、霍光に謁見する者は、その前に身体検査をされ、武器を取りあげられて、
ふたりの吏人に両脇をはさまれながら応接の間へ連れていかれた。
蕭望之はこれを拒み、身を引いて、
「そこまでして会いとうはない」
と、いって閤(くぐり戸)から出ようとして、吏人に引き止められ、匈匈と騒いでいた。
すると、霍光がこれを聞きつけて、役人にまといつかせないで自由にさせた。
蕭望之は霍光に拝謁すると、臆することなくつぎのように説いた。
「将軍は功徳をもって幼主をお輔けになられて、大いなる教化をお布きになり、
あまねく治平を致そうとなされておられます。このため、天下の士は頸を延ばし、踵を企(つまだ)て、
争うようにみずから力を尽くしてお輔けしたいと願うております。
いま、将軍に謁見しようとする士はみなまず身体検査を受け、両脇をはさまれながら連行されておりますが、
周公が成王を輔けて吐握の礼をみずから実践され、
白屋(白い茅で屋根をふいた貧しい家に住む人)をお招きになられた本意とは違うのではないかと恐れます」
食事の途中であろうと、沐浴の途中であろうとそれを中断して天下の士に接見した周公と比べ、
霍光のこの扱いは礼を失してはいまいか。
この発言は霍光の機嫌を損ない、王仲翁らが大将軍の史(属官)になれた中、蕭望之だけが用いられなかった。

出 仕

蕭望之が射策甲科(官吏登用試験)に合格して郎となり、小苑の東門の候(門番)に配属された。
そこを光禄大夫兼給事中に昇っていた王仲翁が出入りしたことがあった。
その際に、かれが倉頭盧児(用務員)を従え車からおりて門にむかって趨りながら伝呼するさまには、
はなはだ恵まれた感があった。
王仲翁が蕭望之を顧みて、
「録々と肯んじないで、門番をしているとは」
と、からかうと、蕭望之は、
「人はおのおのおのれの志に従うんじゃ」
と、真顔で返した。
数年後、蕭望之は弟が法を犯したことに連坐して免ぜられ、帰郷して郡吏となった。
その後、御史大夫(副首相)の魏相の属官になると、清廉なことで推挙され、
大行(外務省)の治礼丞になった。

雨 雹

地節三年(紀元前六七年)夏、長安に雹が降ると、蕭望之は上疎して、
「謁見をたまわり、災異が意味するところを口陳させていただきたく存じます」
と、願い出た。
宣帝は、少府(農林水産大臣)の宋畸に下げ渡して事状を問わせた。
「『春秋』(昭公三年)に、大いに雹ふる、とありますが、
このとき季氏が専権をふるい、魯の昭公を逐いました。
もし魯君(昭公)が天変を察していれば、このような害に遭わなかったでしょう。
いま陛下が聖徳をもって御位に居られ、政をおもい賢を求められるのは、堯舜のようなご配慮でございます。
それなのに善祥がまだあらわれず、陰陽が調和していないのは、
大臣に政を任せ、一姓が権勢をほしいままにしているからにございます。
ついている枝が大きければ幹がそこなわれ、私家が盛んになれば公室は危うくなります。
ただ明主は万機をみずからおこない、同姓の人物を選び、賢材を挙げて腹心となし、
ともに政を謀り、公卿大臣を朝見して奏事させ、その職分を明らかに陳べさせて、
功能を考えるものでございます。
このようになれば、庶事理まり、公道が立ち、姦邪が塞がれ、私家の権勢は廃れましょう」
そう奉答すると、蕭望之は謁者(取次役)に任じられた。

問 状

ときに宣帝は即位したばかりで、賢良の士を進めようとおもっていた。
そのため、上書する者が多く、それをすぐ蕭望之に下げ渡して何をいわんとするかを問うた。
蕭望之はその内容により、よいものは丞相や御史大夫に、それに次ぐものは中二千石(高官)に
請うて試用してもらい、一年経ってその成績に応じて擢用するようにはからい、
取るに足らないものは報告にとどめ、あるいは帰郷させた。
これらの処置は、みな宣帝の御意にかなっていた。
累進して諫大夫、丞相司直に遷任され、一年のうちに三遷して、官二千石に至った。
その後、霍氏は謀反して誅され(紀元前六六年)、蕭望之はしだいにますます任用されるようになった。

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