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中国史人物伝

キングダム 范雎を引退させた一切の弁士 蔡沢(戦国 秦)(2) 引時

蔡沢(1)はこちら≫

燕人の蔡沢は仕官を求めて諸国を游説したが、

追い払われたり、盗賊にあったりなどして、不遇を託っていた。

そんな中、強大国秦の丞相(首相)范雎の苦悩を察し、

取って替わらんとして秦へ往き、范雎を挑発し、説伏の機会を得た。

百戦錬磨の説客であった范雎に対し、蔡沢は四時の序と

大功を挙げながら終わりをよくしなかった英傑を引きあいに出して引退を迫った。

その鋭い舌鋒に丸め込まれないようにしようと、

本心をひた隠しにしていた范雎であったが――

中国史人物伝シリーズ

目次

少 間

范雎の口調がいくぶん柔らかくなったように感じられた。
――いまだ。
つけ入る間隙をみつけたり、と判じた蔡沢は、その機に乗じ、
「商君(商鞅)、呉起、大夫種は、人臣として忠を尽くし功を遂げた点においては、
素晴らしいといえましょう。
一方、閎夭が周の文王に仕え、周公が周の成王を輔けたのも忠といえましょう。
商君、呉起、大夫種と、閎夭や周公を比べました場合、どちらがまさっておりましょうか」
と、范雎に問いをつづけた。
「商君、呉起、大夫種の方が、及ばない」
という范雎の反応を受けて、蔡沢は、
「ご仁慈で忠臣を信任され、昔なじみを欺かれない点で、いまの秦王は、
秦の孝公、楚の悼王、越王勾践にまさっておいででしょうか」
と、たずねた。
「ようわからん」
そう言葉を濁した范雎にむかって、蔡沢は、
「もちろん、いまの秦王は、秦の孝公、楚の悼王、越王勾践ほど忠臣を親任なさいません」
と、いいにくいことを平然といってのけてみせた。さらに、
「また、ご主君のために国の乱れを正し、患難を除き、地を広め、穀物を殖し、
国を富ましてご主君の権力を強くし、威は海内を蓋い、功は万里の外にまで彰すことにおいて、
君は商君、呉起、大夫種に及びません」
と、断じ、説客として鳴らした范雎を黙らせた。

天の常道

蔡沢は、さらに話をつづけた。
「それなのに、君の禄位は貴くて手厚く、家産はあの三人よりまさっております。
それでも身を退こうとなさいません。このことを、われはひそかに君のために危惧しております」
范雎は、目で話の続きをうながしている。
蔡沢はそれを察し、
「日中すれば則ち移り、月満つれば則ち虧く」
という古語をもちだした。
太陽は南中すれば傾きだし、月は満ちれば欠けてゆくものである。
「ものが盛んになると衰えるのは、自然の定めです。
時とともに進退や盈縮(伸び縮み)を変えるのが、聖人の常道です。
むかし、斉の桓公は、諸侯を九合して乱れた天下を一つに匡し治めましたが、
葵丘の会同で驕矜の色をみせたため、そむいた国が九か国も出てしまいました。
呉王夫差は、天下に敵などおりませんでしたが、
諸侯を軽んじ、斉や晋を凌ごうとしたあげく、身を殺し、国を亡ぼしてしまいました。
これらは、いずれも、至盛に乗じて道理に返らなかったからにございます。
商君、白公(白起)、呉起、大夫種の四人は、功をなしても去らなかったがために、禍に遭ったのです。
これが、いわゆる伸びて屈することができず、往きて返ることができないというものです。
范蠡はこのことを知っていて、超然として世世を避け、陶朱公として生き長らえました」

説 伏

蔡沢は、なおも長舌をふるった。
「いま、君は秦の宰相になられ、居ながらにして計謀をめぐらして諸侯を制し、
三川の地(洛陽周辺の伊水・洛水・黄河の三川にまたがる地域)に勢力を及ぼし、
財貨を宜陽に移して充実させ、羊腸の険しい坂を断絶し、太行山への道を塞ぎ、
かつて范氏や中行氏が治めていた三晋(韓・魏・趙)への途を斬り、六国が合従できないようにして、
千里にわたる桟道を築き、蜀や漢に通じさせて、天下がみな秦を畏れるようになさいました。
かくして、秦の欲は充たされ、君の功は極まりました。つまり、秦が功を分けあたえる時がきたのです。
この期に及んで退かなければ、商君、白公、呉起、大夫種のようになってしまいますぞ。
君はどうしていまこのときに宰相の印綬をお返しになり、賢者にお譲りなさらないのですか。
さすれば、必ず伯夷のような廉潔と応侯の地位をお保ちになり、代々孤(諸侯の一人称)と称し、
(古の仙人)王子喬や赤松子のように長生きなさいましょう。
禍で終わるのとどちらがよいとお思いなのですか」
蔡沢の説をきいて、范雎は悦び、
「なるほど」
と、うなり、蔡沢を奥に引きいれ、坐をすすめて、
「先生を、大王に推挙いたそう」
と、うれしそうに語り、上客にしてくれた。

丞相の印

その後数日経って、范雎が入朝すると、
ほどなく王宮から蔡沢のもとに勅使が訪れ、昭襄王への拝謁がかなった。
二人のあいだで、どのような問答が交わされたのであろうか。
当時の秦の状況から察するに、天下を統一するために取るべき国家戦略が主題になったのは想像に難くない。
昭襄王の諮問に対し、蔡沢は、その博識を駆使して、世俗や故事に基づいて答弁をおこなったに違いない。
歴史は繰り返すとはよくいったもので、科学技術がめざましく進歩した現代においても、
人間のおこないは、二千年以上前に生きた古代人のそれと、本質的にはさほど変わらない。
歴史を学ぶ意義は、その点にもあるといえよう。
ともかくも、昭襄王は、蔡沢と語り終えると、
「そこもとを、客卿(他国出身の高官)とする」
と、機嫌よくいった。
これに安心した范雎は、病と称し、辞任を願い出た。
昭襄王ははじめは聴き容れなかったものの、
「重篤な病でありますゆえ」
と、范雎が申し出ると、ようやく辞任を許し、蔡沢を後任にすえた。
無名の説客であった人物が、ひと跨ぎで人臣の最高位に昇ったのである。
この時代ならではの人事といえよう。
――この日がくるのを、どれだけ待ち望んだことか。
蔡沢は丞相の印綬を拝受して、その重みに恐縮しつつも、
――思うたより軽いな。
とも感じた。

言行一致

蔡沢が丞相になってからをほどなく、秦は形式的であったとはいえ連綿と存続していた周を滅ぼした。
これで、名実ともに秦の天下になったといってよいであろう。
――これからさらに秦の版図を拡げようぞ。
そう意気込んだ矢先に、蔡沢はある者から中傷を受けてしまった。
――ここで退かなければ、禍に遭おう。
蔡沢は誅されるのを懼れ、病と称して、ためらうことなく丞相の印綬を返上した。
わずか数か月のみの丞相であったが、蔡沢は、計謀飛び交う世にあって、
言行を一致させた稀有な人物であることを、みずからの進退で示した。

剛成君

丞相の席をおりた蔡沢は、
「剛成君」
と、号し、なおも十年以上秦にとどまり、四代の王に仕え、おのれを重用してくれた秦国の恩に報いた。
昭襄王の曽孫にあたる政(始皇帝)のとき、国政を担っていた呂不韋の命で、
蔡沢は使者として生国である燕におもむき、太子丹を人質として秦にいれるのに尽力した。
これを最後に、蔡沢は歴史の表舞台から姿を消した。
蔡沢と范雎は、平穏な晩年を送り、天寿を全うした。
その点において、成功し、権勢を得た説客としては、稀少な存在であったといえよう。

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