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中国史人物伝

善は衆の主 苦悶の宰相 欒書(欒武子)(春秋 晋)(1) 邲の戦い

晋の名族のひとつに数えられる欒氏は、

紀元前九世紀半ばに在位した靖侯の庶孫 欒賓が欒を食邑として授かったことにはじまった。

文侯(靖侯の玄孫)の弟の成師(桓叔)が曲沃に封じられると、欒賓はその宰相に任じられた。

その後、欒賓の孫である欒枝が文公(重耳、桓叔の玄孫)のときに卿(大臣)に任じられ、

欒枝の子欒盾も卿に昇った。

このように欒氏は晋の名家であったが、意外なことに、

その当主で晋の宰相にまで昇ったのは、欒盾の子
欒書(欒武子)
ただひとりである。

14年ものあいだ盟主国の宰相を務めたかれの代で、欒氏は繁栄をみせた一方、

滅亡の端緒も生み出した。

中国史人物伝シリーズ

目次

卿の位

欒書の名がはじめて史書にあらわれるのは、晋の景公三年(紀元前五九七年)のことである。
南方の大国である楚の荘王が、晋の盟下にあった鄭を攻めた。
鄭は、盟主国の晋に救援を要請してきた。
これに対し、晋の宰相荀林父らは、楚の精鋭と干戈を交えることをためらい、傍観を決めこんだ。
ところが、ひと月経ち、二か月が経っても、鄭からの使者が絶えることがなかった。
ここに至って、荀林父らも肚を決め、重い腰をあげざるを得なくなった。
出師に先立ち、晋は軍事演習をおこない、新たに叙任をおこなった。
そこで、欒書は下軍の佐将に任じられ、卿に名を連ねた。  
中上下の三軍を率いる将の名を、以下に記す。
 中軍 将 荀林父 佐将 先縠
 上軍 将 士会  佐将 郤克
 下軍 将 趙朔  佐将 欒書

渡 河

晋軍が出師をおこない、河水(黄河)の岸まで到ると、
「鄭が、楚と和睦しました」
という報せを受けた。
「ならば、戦う必要はあるまい」
元帥の荀林父はそういって引き返そうとしたが、中軍の佐将であった先縠が、
「鄭を援けにきたわけですから、引き返すわけにはまいりません」
と、反対し、手勢を率いて渡河してしまった。
人臣の最高位に就いたばかりで、まだ権力を掌握しきれていなかった荀林父は、
「彘子(先縠)が手勢を率いて危地に陥れば、あなたの罪は大きい。
あなたは元帥なのです。軍が命に従わないのは、たれの罪でありましょうか。
盟下の国を失い、兵までも失えば、罪はさらに重くなります。
ここは進軍すべきです。戦って敗れれば、罪を分かち合えればよいのです。
ひとりで罪をかぶるより、六人で罪を分かち合う方がよいではありませんか」
と、司馬(軍監)の韓厥に説得され、全軍を渡河させた。

良 識

晋軍は、敖山と鄗山の間の窪地に陣を布いた。
そこへ鄭の大夫皇戌が訪れ、
「鄭が楚に従ったのは社稷を守るためであり、二心をいだいているわけではございません。
楚軍は勝ち続けて驕っており、疲労しているのに備えがありません。
攻撃すれば、わが軍も後に続きましょう。楚軍は必ず敗れます」
と、申し入れてくると、先縠が喜んで、
「楚を敗り、鄭を服従させるのは、いまをおいてあるまい。この申し出に随うべきです」
と、進言した。それに対して、欒書は、
――そんなわけあるか。
と、強く憤りつつ反駁をおこなった。
「庸に勝ってから(紀元前六一一年)、楚君(荘王)は毎日のように国人に教訓をたれ、
軍中においては毎日のように兵士に訓誡をたれており、驕慢とは申せません。
いまわが方には徳がなく、楚に怨まれておりますから、
わが方が曲(不正)で楚が直(正)であり、楚軍が疲労しているとは申せません。
楚君の直属兵は二広(兵車十五乗)に分かれており、一広に一卒(百人の兵)がつき、
さらに卒に偏(五十人の兵)と両(二十五人の兵)がついています。
右広が夜明けから見回りをおこない、日中になると左広が交替して日暮れまで見回りをおこない、
その後は内官(近臣)が順番で夜警に当たり、万一に備えております。それゆえ、備えがないとは申せません。
子良は鄭の良心であり、師叔(潘尫)は楚で崇ばれております。
その師叔が鄭に入って盟い、子良が楚の人質になっているのですから、楚と鄭は親しんでおります。
それなのに戦いを勧めてくるのは、われらが勝てばわれらにつき、勝てなければ去ろうとしているのであり、
われらの勝敗でどちらにつくか占おうとしているのです。鄭のいうことなど、聴いてはなりませぬぞ」
この意見に対する荀林父の反応は不明であるが、上司にあたる下軍の将の趙朔は、
「欒伯(欒書)は素晴らしい。その発言通りに実行できれば、必ず晋国を担うことになろう」
と、称めてくれた。

和 約

交戦か、引き揚げか――。
諸将の軍議がまとまらないうちに、楚の使者が晋の本陣を訪れてきた。
「寡君は幼くして閔凶(親の死)に遭い、(学問をする暇がなく)文徳がございませんが、
二先君(成王と穆王)が鄭を伐ったのは、鄭を教え定めるためと聞いております。
どうして貴国のお咎めを受けるようなことをいたしましょうや。
あなた方におかれましては、これ以上長逗留なさらないよう願います」
この申し出に、上軍の将の士会が、
「ご命令のほどは承りました」
と、応じた。
楚が再度使者を遣ってくると、晋もそれに応じ、会盟の日取りまで決めた。

二 憾

「楚へ使いさせていただきたい」
魏錡と趙旃がそう願い出て、楚の陣へむかった。その様子をみて、
「二憾(不平分子)が往ったぞ。備えをしておかなければ、必ず敗れよう」
と、上軍の佐将の郤克がいうと、先縠が、
「鄭人が交戦を勧めてきたのに従わなかった。楚人が講和を求めてきても、和平に応じることができなかった。
軍に成命なし(戦うのか和睦するのか決められない)。備えたとて、役に立つまい」
と、吐き棄てた。しかし、士会は、
「備えるのはよいことだ」
と、諭し、敖山の前に伏兵を七か所設けさせた。
また、中軍大夫(目付役)の趙嬰斉は、部下に命じて河水の岸に舟を用意させておいた。
万一に備えてのものであった。
さらに、魏錡と趙旃が楚を怒らせているのではないかと懼れ、晋は軘車を出して二人を迎えに遣った。
軘車は兵車の一種らしいが、戦闘に用いる車ではないらしい。
つまり、二人を収容するだけで、楚軍と戦うつもりはなかったものとおもわれる。

舟中の指

六月乙卯(十四日)、趙旃は楚の陣に到ると、手勢を陣中に潜入させ、楚軍が出てくると逃げた。
趙旃らが迎えにきた晋の軘車に合流したとたん、
かれらを追撃してきた楚軍が、そのまま晋軍に襲いかかってきた。
「先に渡河する者には賞を授けよう」
帥将の荀林父は太鼓を打ちながら、軍中にそうふれまわった。
それをきいて、趙朔と欒書は下軍に撤退を命じた。
晋の中軍と下軍の兵は河水にむかって走り、先を争って舟に乗ろうとした。
先に舟に乗った兵が舟の転覆を恐れ、
あとから続いて舟に乗ろうと舟べりに手をかけた兵の指を斬り落としてしまったため、
斬り落とされた指が多数積み重なり、ついには両手で掬いあげることができるくらいにまでなった。
中軍と下軍が見苦しく潰走する中、士会率いる上軍が踏みとどまって楚軍の追撃をくい止めはしたものの、
晋は楚に大敗し、荘王が覇者となった。

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