中隠を志向した閑居の達人 陶淵明や李白とならぶ飲酒詩人にして平安文化の恩人 白居易(白楽天)(唐)(2) 科挙
白居易は、貞元16年(800年)、29歳で科挙(貢挙)の進士科に応挙した。
難関試験である科挙の突破は至難を窮め、
「五十歳で進士になるのはまだ若い方」
と、いわれるくらいであるから、二十歳代で及第すれば、快挙といえる。
ところが、上には上があるもので、
後年、白居易と親交する同い年の劉禹錫は22歳で、7年前(793年)の科挙で
進士科に及第したばかりか、同年の合格者には、一歳下で当時21歳の柳宗元もいた。
さらに、同年の明経科には、後に白居易の無二の友となる元稹が、15歳で及第していた。
応挙が遅れたことで、白居易は、同年代の才人の後塵を拝することになった。
中国史人物伝シリーズ
目次
郷 試
貞元十五年(七九九年)の秋、白居易は宣州へゆき、郷試を受けた。
郷試は原則として本籍地で受けるべきところ、白居易が本籍地ではない宣州で受験できたのは、
当時、父の従兄である白季康が宣州の溧水県で県令をしていたことが関係していたと想われる。
ともかくも、白居易は郷試に及第し、
座主を務めた宣歙観察使の崔衍に推挙されて、進士科を受験することになり、
ひとり馬に乗って、都長安へ旅立った。
長安正月十五日
日暮れ時、閉門を告げる太鼓の音が響きわたるなか、はじめて長安の城門をくぐった白居易は、
二十九歳にして長安ではじめての春を迎えた。
白居易は、省試を前に、緊張と不安をいだきつつ、元宵節でにぎわう都のようすをみて、
「長安正月十五日」と題した詩を詠んだ。
諠諠たる車騎 帝王の州(無数の車騎が行き交い、喧噪な帝都にあって)
羈病 心の勝遊を誘う無し(旅の疲れが取れず、心楽しく遊ぶことができない)
明月 春風 三五の夜(明るく美しい満月、気もちを浮き立たせるような春風、そして元宵の祭りに誘われて)
万人行楽して一人愁う(みなが遊び楽しみ出歩くなか、ひとり不安のなかにいる)
祭りでにぎわう帝都になじめず、一人憂愁のなかにいた白居易が、旅の疲れを、
「羈病」
と、表現したのは、三十歳を前にようやく省試をうけるところまできた、という感慨に加え、
二十年以上も各地を流浪してきたことへの憶いもあったのではなかろうか。
行 巻
貞元十六年(八〇〇年)正月、白居易は給事中(正五品上)の陳京に
雑文二十首、詩百首を添えて書翰を献呈し、知貢挙(試験委員長)への推薦を依頼した。
これは、
「行巻」
と、呼ばれ、科挙の受験生が、試験を前にみずからの文才を売り込むことは、当時においては通例であった。
その書翰(「与陳給事書」)のなかで、白居易は、
居易は鄙人なり。(白居易は、家柄の低い田舎者です。)
上は朝廷に附離の援無く、次に郷曲に吹煦の誉も無し。
(朝廷で援けてくれるような貴人はおらず、郷里でいささかの名誉もございません)
然らば則ち孰か為めに来たらんや。(それなのに、何のために科挙を受けにきたのでしょうか)
蓋し杖る所の者は文章のみ、望む所の者は主司の至公のみ。
(頼みとするのはおのれの実力だけですので、試験官が公正に扱ってくださることを希望いたします。)
と、飾らない心情を吐露した。
その念いは、あるいは天に通じたのかもしれない。
こんどの省試の知貢挙は、尚書省礼部侍郎(正四品下)の高郢であった。
かつて郭子儀の部下であった高郢は、三年後に宰相に擢用されるが、
徒党を組んで互いを推薦しあうような者らからの請願を謝絶するような公平無私な人物であった。
省 試
貞元十六年(八〇〇年)二月、白居易は尚書省礼部主催の科挙の進士科の省試を受験した。
省試では、詩賦に加えて論文が課された。
二月十四日に合格発表があり、白居易は第四位で及第した。
しかも、二十九歳での及第は、十七人の合格者の中で最年少であったという。
白居易はこの快挙を伝えるべく、母のいる洛陽へと発った。
その道すがら、わが子を白氏で初となる進士科合格者とするために、
母が『書経』や『詩経』を手にとって昼夜にわたって教えてくれたことを憶いだした。
洛陽に到り、
「進士科に及第しました」
と、報せると、
「ああ」
と、陳氏は涙ぐみ、快挙を成したわが子と抱きあって喜んでくれた。
守 選
科挙に合格すれば、ただちに仕官できるわけではない。
科挙は就職試験ではなく、単なる資格試験にすぎず、
官吏に登用されるには、さらに尚書省吏部が行う銓試を受ける必要があった。
ただし、任用試験である銓試には、
「守選」(任用待ち)
という制度があり、進士科の合格者は三年、明経科の合格者は七年が経たなければ、
試験を受けることができない。
白居易は洛陽でしばらく母親と過ごしてからふたたび長安に戻り、銓試にむけ、勉強をはじめた。
ところが、外祖母の白氏(母陳氏の母)の訃報に接した白居易は、
その霊を弔うべく白氏が亡くなった徐州の古豊へゆき、白氏の棺を護りつつ、符離へゆき、殯葬をおこなった。
白居易は、その足で兄のいる浮梁へむかい、科挙に合格したことを伝えた。
百歳三分
翌貞元十七年(八〇一年)、旅先で三十歳の誕生日を迎えた白居易は、
――もう三十か、若くはないな。
という思いから、
「花下 自ら酒を勧む」と、題した詩を作った。
言うなかれ 三十是れ年少と(三十歳なんてまだ若いなどいわないでもらいたい)
百歳三分して已(すで)に一分(既に一生の三分の一は過ぎたんだから)
その後、白居易は江南の宣州へゆき、二年前の郷試で座主を務め、自分を推薦してくれた崔衍に
進士科及第を伝え、謝意を述べてから洛陽へ移り、母や弟とともにすごしてから長安にもどった。
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