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中国史人物伝

皇帝の廃替を敢行しながらも功臣とされた外戚 関白の元祖 霍光(前漢)(4) 昌邑王

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上官桀らとの権力争いを制し、昭帝の信頼を背にゆるぎない地位を築いた霍光は、

みずから大臣に引き立てた故吏らの輔佐を受けながら寛治を心がけた。

その結果、民の暮らしは充実し、四方の夷は漢朝に来聘して服従した。

昭帝は、元服してからも霍光に政務を委ねつづけた。

中国史人物伝シリーズ

目次

禅 譲

元鳳三年(紀元前七八年)正月、泰山で大きな石がおのずと起ちあがったという報せがあり、
さらに、上林苑で枯れて倒れていた柳の樹が生き返り、みずから起ちあがったという報せもはいった。
そのようなおりに、符節令の眭弘からつぎのような上書があった。
「漢の皇室は堯の後裔で、(堯が舜に禅譲したように)国を伝える命運がございます。
皇帝は天下から賢人を求索し、これに帝位をお譲りなさるべきです」
霍光はこれを憎み、廷尉に下げ渡し、
「妄りに妖言を吐いて衆を惑わし、大逆不道であります」
という廷尉の奏上を受け、眭弘を誅殺した。
眭弘が師事した嬴公は、儒学の官学化を提案したとされる儒学者董仲舒の弟子である。
董仲舒は春秋公羊学を修め、
――変事が起こる場合には、必ずその前に怪異現象がある。
という
「災異説」
を導き出した。
孔子は怪力乱神を語らなかったが、董仲舒以後の儒者は災異説にとらわれ、
孫弟子にあたる眭弘は災異説と堯から舜への禅譲を結びつけた。
――霍光こそ皇帝になるべきである。
と、眭弘は訴えたのであろうか。
当時天下の運営をしていた霍光が皇帝になれば、名と実が一致することになる。
後年、王莽はこのような論理を積みあげて帝位を簒奪したが、霍光は眭弘の進言を退けた。
あくまで武帝の遺詔を遵奉するという立場を貫く、それがかれにとってのすべてであった。

皇 孫

元平元年(紀元前七四年)四月癸未(十七日)に、昭帝が崩じた。
二十一歳の若さで亡くなった昭帝には、皇子がいなかった。
次の皇帝を、たれにするか。
昭帝の兄弟である武帝の皇子でまだ生きていたのは、広陵王胥だけであった。
「広陵王を立てるにしかず」
群臣はみなそう述べた。
――広陵王は素行が悪かったゆえ、先帝は後嗣にしなかったんじゃなかったか。
それをおもい、霍光は内心不安をおぼえた。そこに、
「周の太王(古公亶父)が太伯を廃して王季を立て、文王が伯邑考をさしおいて武王を立てたのは、
すぐれたところがあったからです。
長子を廃して少子を立てても差し支えありますまい。広陵王は宗廟を承けるべきではありません」
という上書があった。
――わが意を得たり。
内心手を拍った霍光は、
「先帝の皇孫に、目ぼしい方はおられるか」
と、側近の者に訊いた。
「昌邑王の劉賀さまがおられます」
そうきかされた霍光は、上書を丞相(首相)の楊敞らにみせ、
「昌邑王の劉賀さまを喪主に据えよう」
と、提案し、同意を得ると、その日のうちに皇后の詔を承け、
大鴻臚兼少府史楽成、宗正劉徳、光禄大夫丙吉、中郎将利漢を使者として山東の昌邑国へ遣わした。

政 争

劉賀は長安に至ると、六月丙寅(一日)に皇帝の璽綬を奉り、皇后を尊んで皇太后と称した。
ときに劉賀は十九歳、皇太后は十五歳であった。
霍光の心づもりとしては、劉賀の服喪中は従来通り霍光が政務を総覧するが、
喪を除いたあかつきには、劉賀に聴政の席についてもらうつもりであった。
ところが、劉賀は昌邑から連れてきた寵臣ばかりを高位に昇らせて左右に侍らせ、
――先帝の臣を、わが臣とするつもりはない。
とばかりに霍光の権力を削ごうと試みだした。
霍光は憂え、もとの部下で親交のあった大司農田延年に意見を求めた。
「将軍は国の柱石です。この人がよろしくないとおぼしめしでしたら、
なにゆえ太后に申しあげ、あらためて賢明な方を立てようとなさらないのですか」
「そうしたいとおもうのだが、古昔にこのようなことはあったかのう」
「伊尹が殷(商)の宰相であったとき、太甲を廃して宗廟を安んじ、後世にその忠が称えられています。
もし将軍にこのようなことがおできになるなら、漢の伊尹と申せましょう」
田延年に背を押されて肚を決めた霍光は、田延年に給事中(皇帝の側近官)を兼任させ、
車騎将軍の張安世とひそかに計を図った。

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