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中国史人物伝

傍若無人ながら刺客になり切れなかった俠士 荊軻(戦国 燕)(4) 始皇帝暗殺

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荊軻は剣術の達人で、胆力があった。

それでも、始皇帝(秦王政)を暗殺することができなかった。

無理な相談であろう、とわかっていながらも、

太子丹の要請を拒まずに暗殺を実行したのであるから、

荊軻が俠士であることはたしかである。

しかし、善人すぎたのか、胸裡に暗晦なものがなかったために、

刺客になり切れなかったのかもしれない。

中国史人物伝シリーズ

目次

折 衝

――秦王の寵臣といえば、蒙嘉か。
そう判じた荊軻は、秦に至ると、千金に値する幣物を持参して、中庶子(公族を掌る官)の蒙嘉に面会を求め、
「燕王はまことに大王のご威光に振るえ恐れ、国を挙げて大王の内臣となりたいと願っております。
その証しといたしまして、謹んで樊於期の首を斬り、その首を燕の督亢の地図とともに大王に献上いたしたく、
参上いたしました。どうか大王への拝謁がかないますよう」
と、いって、手厚く贈った。
「すぐに参内しますゆえ、拙宅でお待ちくだされ」
蒙嘉はそういって、ただちに出かけていった。
――どれくらいかかるかな。
と、荊軻は気をもんだ。しかし、おもったよりもはやく蒙嘉が帰ってきて、
「大王がお会いなされますぞ」
と、告げられた。
これには荊軻もおどろくとともに安堵し、
――いよいよだな。
と、気をひきしめた。

暗 殺

謁 見

荊軻は咸陽宮を訪れ、秦王に謁見した。
通常の使者であれば、金銀で飾り立てられた壮大な宮殿に圧倒されたかもしれないが、
荊軻は大事をまえにして、煌めく金銀も気にとめなかった。
秦王は朝服(朝廷に出仕する時に着る礼服)に身をつつみ、九賓の礼(国賓をもてなす礼)を設けていた。
秦の百官が居並ぶなか、荊軻が樊於期の首を納めた函を捧げもち、
秦舞陽が地図のはいった函を捧げもってあとからつづいた。
宮廷のきざはしまで進んだ。
秦舞陽の顔色が変わり、ふるえあがって恐れだした。
秦の群臣が、そのようすを怪しんだ。
荊軻はふり返って秦舞陽を笑い、進み出て、
「北辺の蛮夷の地に住む田舎者でございまして、これまで天子にお目にかかったことがございません。
それゆえ、震えおののいているのでございます。
どうか大王におかせられては、しばしお許しくださいまして、
この者が御前で使命を全うさせていただきますよう伏して願い奉ります」
と、謝った。
この弁解をきいて不問に付したのであるから、秦王はすごぶる機嫌がよかったようである。

好 機

「秦舞陽が持っている地図を、これへ」
秦王がそう命じると、荊軻は地図を受け取って秦王に差し出した。
秦王が地図を開いていった。
開き終わったところで、匕首があらわれた。
――いまだ。
荊軻は左手で秦王の袖をつかみ、右手で匕首をにぎって秦王を突き刺そうとした。
だが、匕首は秦王のからだに届かなかった。
秦王はおどろき、身を引いて起ちあがった。
そのとき、袖がちぎれた。
秦王は剣を抜こうとしたが、なかなか抜けなかった。それをみて、
――いまが、好機ぞ。
とばかりに、荊軻は秦王を追った。
秦王は、柱をめぐって逃げた。
群臣は驚愕し、不意に起きた事態にたれもが度を失い、傍観するしかなかった。
秦の法では、殿上人は、身に寸鉄の武器すら帯びることが許されなかった。
また、武器を手にしていた郎中(王の護衛官)は、みな階下にひかえており、
詔がなければ殿上にのぼることが許されなかった。
それゆえ、たれも荊軻に撃ちかかれないでいた。
危急に及んでも法が優先される。それが秦という国であった。
それに乗じて、荊軻は秦王を追った。
なかには、素手で荊軻に打ちかかる者もいた。
――そんなもん、きかん。
荊軻はさしたる抵抗を受けることなく、秦王との距離を縮めていった。

逆 襲

――よし、いまだ。
荊軻が、手をのばして秦王をつかまえようとした。
その瞬間、荊軻はからだに衝撃を受けて、よろめいた。
薬嚢(箱)を投げつけられたのである。嚢から粉が飛散し、なにもみえない。
このとき、
「王、剣を負へ」
という声があがった。
剣を背負って、ようやく剣を抜くことができた秦王は、抜いた剣で荊軻に撃ちかかってきた。
荊軻の左股が斬られた。
その場にくずおれた荊軻は、
――ええい、こうなれば――。
とばかりに、匕首を引きつけてから秦王めがけて投げつけた。
が、中たらなかった。
金属が柱に中った音がした。
その後、秦王がふたたび荊軻に撃ちかかってきた。
荊軻は、身に八か所の傷を負った。
――もはや、これまでか。
そうさとった荊軻は、柱にもたれて笑い、足を投げ出してすわり、罵声をはりあげて、
「うまくいかなんだのは、秦王を生かしたままで脅しつけ、
諸侯から奪い取った地を返すという約束をさせてから、太子に首尾を報告したいとおもうたからだ」
と、うそぶいた。
いい終わるや否や、左右の者らが進み出て、荊軻に斬りつけてきた。

滅 亡

燕は秦の怒りを買い、王翦の軍に攻められ、十か月もの奮戦むなしく首都である薊城を抜かれてしまった。
燕王喜や太子丹らは遼東へ逃げたものの、秦将李信の猛追に遭ってしまった。
窮した燕王は太子丹を殺して秦にさし出そうとしたが、秦軍の攻撃はやまない。
荊軻の死から五年後(紀元前二二二年)、燕は滅ぼされ、燕王喜は捕虜となった。
その翌年(紀元前二二一年)、秦は天下を統一して、秦王は皇帝と号した。
秦は燕を滅ぼすと、太子丹と荊軻が蓄えていた客を放逐した。
その中に、高漸離がいた。
かれは荊軻の遺志を果たそうとしたのであるが――。

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